春秋時代 白公の乱(後)

東周敬王四十一年479年)に楚で起きた白公の乱に関する記述を紹介しています。
 
今回、まずは『淮南子・人間訓』からです。
白公の乱が起きる前に屈建が石乞に言いました「白公・勝が乱を起こすだろう。」
石乞が言いました「そんなはずはない。白公・勝は下士に対してへりくだり、賢人の前で驕慢にならず、その家は管龠や関楗(どちらも鍵)の守りを必要としていない(誰からも怨まれていない)穀物を売り出す時は大斗斛(大きな容器)を使い、買い入れる時はわざと軽く量っている(同じ金額でも売る時はたくさん出し、買う時は少なく受け取っている)。汝がそのように論じるのは相応しくない。」
屈建が言いました「そのようであるからこそ、彼は謀反するのだ。」
三年後、白公・勝は乱を起こして令尹・子椒(実際は子西)と司馬・子期を殺しました
 
 
次は『韓非子・喩老(第二十一)』からです。
白公・勝が挙兵を考えていた頃の事です。ある日、朝会が終わってから白公が杖を持って退席しました。この杖というのは恐らく馬を叩く鞭です。しかし杖を逆に持っていたため、先端の尖った部分(杖、または鞭の構造がよくわかりませんが、先が鋭くなっていたようです)が頬に刺さり、血が流れました。
ところが挙兵の事で頭がいっぱいだった白公は、頬から血が流れても気がつきませんでした。
それを聞いた鄭人(白公・勝の父は鄭で殺されました)はこう噂しました「頬の傷も忘れるくらいだ。他に忘れることがあるだろうか(頬の傷にも気がつかないくらいだ。報復の事以外に夢中になることはない)。」
遠くの事に夢中になったら近くで起きていることも分からなくなるという寓話です。
 
 
『新序・義勇(巻八)』からです。
公孫勝楚が父を放逐したことを怨み、恵王と子西を殺そうとしました。
公孫勝は易甲を味方につけたいと思い、士兵を連れて易甲に会いに行き、こう言いました「私に協力すれば富貴を心配する必要はないが、協力しないようなら、これらが必要になる。」
易甲が笑って言いました「吾子(あなた)は私を義人だと言っていたことを忘れましたか?天下を奪うようなことは、不義なので私にはできません。兵器によって私を脅迫するのは、不義なので私には従えません。今、子(あなた)は子の国君を殺そうとしており、しかも私を子に従わせようとしています。これは私の前義(かつて義人と認めたこと)を否定することです。子は私に利を語り、兵器によって私を脅迫しましたが、私には許容できません。子が子の威を行うのなら、私も私の義を明らかにします。子に逆らえば兵器で争うことになり(命が危険になり)、子に応じれば名声を賎しめることになります。士は義を立てても争わず、死節を行って自分を卑しめないものです。」
易甲は平然と兵器に立ち向かって顔色を変えませんでした。『新序』には明記されていませんが、易甲は殺されたようです。
 
白公勝が乱を起こして楚恵王を殺そうとしたため、恵王は出奔しました。令尹と司馬が殺されます。
白公が剣を屈廬の首に置いて言いました「(汝)が私に従うのなら赦してやろう。協力しないようなら子を殺す。」
屈廬が言いました「『詩(大雅・早麓)』にはこうあります『葛藟(植物の名)が一面を埋め、樹木にも蔓延する。慈愛の君子は、福を求めて姦悪にならない(莫莫葛藟,肆于条枝。愷悌君子,求福不回)。』今、子(あなた)は自分の叔父・西(令尹・子西。子西は平王の子。白公は平王の孫です)を殺しながら、廬に福を求めようとしています。それはなぜですか?命を知る士とは、利を見ても動かず、危険に臨んでも恐れないといいます。人臣たる者にとっては、時が生かしたら生き、時が死なせたら死ぬのが礼です。上は天命を知り、下は臣道を知っているのです。どうしてそれを強制することができますか?子はなぜ剣を推さないのですか?」
白公は剣を収めました。
 
白公勝は令尹と司馬を殺してから、王子・閭を王に立てようとしました。しかし王子・閭は同意しません。白公が兵器を持って脅すと、王子・閭はこう言いました「王孫楚国を補佐して王室を正し、その後、私を守るというのなら、それは閭の願いでもあります。しかし今、子は威を借りて王室を襲い、殺伐によって国家を乱しました。私はたとえ死んでも子に従うことはできません。」
白公が言いました「楚国の重(大国としての地位)は天下にまたとない。天が子に与えたのに、子はなぜ受け入れないのだ?」
王子・閭が言いました「天下を辞退するのは、その利を軽視するからではなく、その徳を明らかにするためであり、諸侯にならないのは、その位を嫌うからではなく、その行いを清くするためだといいます。私が国を得て主を忘れたら不仁になります。白刃に脅されて義を失ったら不勇になります。子は私に利を語り、兵器で私を脅迫しましたが、私には従えません。」
それでも白公が即位を強要しましたが、王子・閭はかたくなに拒否して殺されました。
暫くして葉公・高(子高)が兵を率いて白公を誅殺し、恵王を復位させました。
 
白公の難が起きた時、楚の荘善という者が母に別れを告げました。母が問いました「親を棄てて国君のために死ぬのは、義といえますか?」
善が言いました「国君に従う者は、俸禄を内にして身を外にする(国から俸禄を受け取り、自分の身命を国に捧げる)といいます。今、こうして母を養うことができるのは、国君の俸禄があるからです。命をかけないわけにはいきません。」
荘善は母と別れ、公門(恐らく王宮の門)まで来ました。途中、車から三回転落します。僕(従者)が問いました「子(あなた)は恐いのですか?」
荘善が答えました「恐い。」
僕が問いました「それほど恐れているのに、なぜ帰らないのですか?」
善が言いました「恐いのは私個人のことだ。義のために死ぬのは公のためだ。君子は私によって公を害すことがないという。」
荘善は公門に至ると首を斬って死にました。
君子はその義を称賛しました。
同じような話は斉荘公が崔杼に殺された時もありました。
 
 
淮南子・道応訓』からです。
白公・勝は挙兵に成功して荊(楚国)を得ましたが、府庫の財宝を人々に分け与えようとしませんでした。七日後、石乞が言いました「不義によって得たのに施しができないようでは、禍が必ず至ります。人に与えることができないのなら、焼き棄てるべきです。これが原因で人に害されてはなりません。」
しかし白公は諫言を聞きませんでした。
九日後、葉公が王宮に入って大府(財物を管理する官府)の財物を人々に与えました。更に高庫(大きな倉庫)の武器を民に配って白公を攻撃します。
十九日後、白公が捕えられました。
 
 
『説苑・立節(巻四)』からです。
楚に申鳴という士がおり、家で父を養っていました。その孝心は楚国中に知れ渡っていたため、楚王は申鳴に相(国王を補佐する官)の位を与えようとします。しかし申鳴は辞退しました。
父が問いました「王が汝を相にしようとしているのに、汝はなぜ受け入れないのだ?」
申鳴が逆に問いました「なぜ父に仕える孝子という立場を棄てて、王に仕える忠臣になる必要があるのですか?」
父が言いました「国から禄を受け取り、朝廷に義を立てることができれば、汝の喜びとなり、わしも心配がなくなる。汝には相になってほしい。」
申鳴は父の意見に従って入朝し、楚王の相になりました。
 
三年後、白公の乱が起きて司馬・子期が殺されます。
申鳴も死に臨もうとすると、父が止めて言いました「父を棄てるのが正しいことか?」
申鳴が言いました「国君に仕える者は、身は国君に帰し、禄は親に帰すといいます。既に父から離れて国君に仕えたので、難に対して命をかけないわけにはいきません。」
申鳴は父に別れを告げると、兵を率いて白公を包囲しました。
 
白公が石乞に言いました「申鳴は天下の勇士だ。その彼が兵を率いて包囲した。どうすればいいか?」
石乞が言いました「申鳴は天下の孝子です。その父を捕えて脅迫すれば、必ず申鳴が来るので、彼と話ができます。」
白公はこれに従い、申鳴の父を捕えると武器を使って脅しました。
白公が申鳴に伝えました「(汝)が私に協力するのなら、わしと子で楚国を分けよう。子が私に協力しないようなら、子の父が死ぬことになる。」
申鳴が涙を流して答えました「かつて私は父の孝子でした。今、私は国君の忠臣です。その(食禄)を食べた者はその事(国君に仕えること)のために死に、その禄を受けた者はその能を尽くすといいます。私はもう父の孝子にはなれません。国君の忠臣になったので、命を棄てないわけにはいきません。」
申鳴は戦鼓を叩いて攻撃を開始し、白公を殺しました。申鳴の父も殺されます。
乱が平定されてから、王が金百斤を申鳴に下賜しようとしました。しかし申鳴は「国君の食を食べながら国君の難を避けたら忠臣ではありません。国君の地位を安定させるために臣の父を殺したら孝子ではありません。名(忠臣と孝子の名)を両立できず、行(忠と孝の行い)も両(両方を全うすること)できないのに生き続けても、天下に対して面目がありません」と言って自殺しました。