春秋時代 臥薪嘗胆
越王・句践は呉に大敗して首都を失い、呉王・夫差に臣従を誓いました。しかし句践は「臥薪嘗胆」して復讐を誓いました。
「臥薪」は「薪の上に寝る」という意味です。薪を積んだ寝床は平ではないので寝心地が悪く、体が痛くなります。寝返りもできなかったかもしれません。
「嘗胆」は「胆を舐める」という意味です。部屋の上から苦い胆を吊り下げ、寝起きする度にそれを仰ぎ見て舐めました。
敢えて薪の上で寝たり、苦い胆を舐めたのは、自分を苦しめることで夫差への憎しみを忘れないようにするためです。
「臥薪嘗胆」という成語は「何かを成し遂げるために苦労に堪えて努力すること」という意味で使われています。
今回はこの「臥薪嘗胆」について書きます。
1、「臥薪」と「嘗胆」
「臥薪嘗胆」の大元になったのは『史記・越王句践世家』で、こう書かれています。
呉が越と和平してから、越王・句践は国に帰り(句践が国に帰ったのは敗戦から三年後の東周敬王二十九年・前491年のことです)、苦身焦思(苦心して深く考えること)しました。
苦い膽(胆)を坐に置き(座席や寝床の上に胆を掛けて垂らし)、仰向けになったら膽を仰ぎ見て嘗め、飲食の時にも膽を口にし、苦味によって苦悩を思い起こして「汝は会稽の恥を忘れたか」と言いました。
『史記』の記述はこれだけです。「臥薪」がありません。
『春秋左氏伝』では、越王・句践ではなく呉王・夫差が復讐を誓ったことが書かれています。それによると、かつて呉が越に敗れて父・闔閭が殺されたため、夫差は部下を庭に立たせ、その前を通るたびに「お前の父を殺したのは越だということを忘れたか」と言わせました(東周敬王二十四年・前496年)。
復讐を誓って成功したという点では越王・句践の故事と共通しています。しかし、『春秋左氏伝』には「臥薪」も「嘗胆」も出てきません。
漢代になると『呉越春秋・句践帰国外伝(第八)』にこういう記述が登場します。
越王は呉の仇に報復するという念を長い間保ち続け、夜に日を継いで苦身労心しました。目が臥せると(眠くなってまぶたが重くなると)蓼で目を刺激し(目臥,則攻之以蓼)、足が寒くなると敢えて水に浸します(足寒,則漬之以水)。冬はしばしば氷を抱き、夏は火(熱い物)を握りました(冬常抱冰,夏還握火)。愁心苦志し、膽(胆)を戸に吊り下げ、出入りする度に必ず舐めます(懸膽於戸,出入嘗之)。夜中になっても涙を流して泣き、泣いたら声をあげました。
『呉越春秋』の「目臥,則攻之以蓼」という部分が「臥薪」の元になったのではないかともいわれています。
「蓼」は苦い植物で、多数の蓼をまとめたものを「蓼薪」といいます。句践は眠くなると苦い「蓼薪」を目に当てて刺激したようです。
この「目臥」と「蓼」の内容が、誤って理解されたのか、わかりやすくするために敢えて解釈を変えたのかは不明ですが、「臥薪」として後世に伝えられた可能性があります。
このように本来「臥薪」と「嘗胆」は別々に生まれました。しかし宋代の詩人・蘇徹(蘇東坡)が「擬孫権答曹操書」の中で「臥薪嘗胆」という成語を使っています(但し、この文章の中で臥薪嘗胆したのは三国時代の孫権で、呉越の戦いとは関係ありません)。
また、同じく宋代の呂祖謙による『左氏伝説(巻二十)』にも越王・句践が「坐薪嘗膽」したと書かれています。「臥薪」が「坐薪(薪に座る)」となっていますが、意味は同じです。
これらの例から、宋代には「臥薪」と「嘗胆」が組み合わさって一つの成語になっていたことがわかります。
2、誰が「臥薪嘗胆」したか
上述の通り、「臥薪嘗胆」は元々「臥薪」と「嘗胆」という二つの言葉でした。
今までの例では「臥薪」も「嘗胆」も越王・句践の故事として語られています。
呉王・寿夢の後、四君を経て闔閭に至りました。闔閭は伍員を登用して国事を謀ります。
伍員は字を子胥といい、楚人・伍奢の子です。伍奢が誅殺されたため、伍員は呉に出奔し、呉兵を率いて楚都・郢に攻め入りました。
後に呉が越を攻めましたが、呉王・闔閭は負傷して死にました。闔閭の子・夫差が即位します。子胥は闔閭に仕えた時と同じように子差に仕えました。
夫差は父の讎に報いる志をもち、朝夕(毎日)、寝心地の悪い薪の上で寝ました(臥薪)。また、王宮を出入りするたびに、近臣に「夫差よ、越人が汝の父を殺したことを忘れたか」と叫ばせました。
周敬王二十六年、夫差が夫椒で越を破りました。
越王・勾践(句践)は残った兵を率いて会稽山に籠もり、自ら呉の臣となり、妻を呉王の妾にすることで講和を求めました。
伍子胥は反対しましたが、太宰・伯嚭が越の賄賂を受け取っていたため、越を赦すように夫差を説得しました。
赦されて帰国した勾践は坐臥(寝起きする部屋)に苦い膽(胆)を吊り下げ、仰向いたら膽を舐めて(嘗胆)こう言いました「汝は会稽の恥を忘れたか。」
勾践は国の政治を全て大夫・種に委ね、范蠡と兵を調練して呉を討つ計画を謀りました。
以上が『十八史略』に書かれている「臥薪嘗胆」です。
日本では『十八史略』が広く読まれているため、「夫差が臥薪して句践が嘗胆した」と言われることが多いように思います。
しかし中国では『十八史略』があまり普及しませんでした。そのため、「臥薪嘗胆」はあくまでも句践の故事として語られています。
明清時代に書かれた『東周列国志(第八十回)』も、勾践(句践)が「寝る時は薪を重ねて臥し、布団を使わなかった。また、膽を坐臥の所に吊り下げ、飲食や起居の度に必ずそれを取って舐めた(累薪而臥,不用床褥。又懸膽於坐臥之所,飲食起居,必取而嘗之)」と書いています。
「臥薪嘗胆」は『史記』による句践の「嘗胆」から始まり、後に「臥薪」が加えられ、更に夫差の復讐劇にも拡大されました。通常、多くの成語は出典がはっきりしていて始めから形が完成していますが、「臥薪嘗胆」は時間をかけて完成した成語の一つといえます。