戦国時代に入る前に

概略
約三百年にわたる春秋時代が終わりました。
春秋時代は周王の権威が衰退し、各諸侯国が独立割拠していく時代でした。
しかし、諸侯にはまだ天下を統一する条件も意思もなく、形骸化したとはいえ周王の存在は無視できないものでした。
戦国時代になると周王室の権威は完全に失墜します。
春秋時代に周を除いて王を名乗っていたのは楚、呉、越といった辺境の国々だけでしたが、戦国時代に入ると中原の各国も次々に王を名乗ります。
そして最後は、秦が周王室を完全に滅ぼし、更に諸王国を統一して、中国最初の大帝国を誕生させました。
 
春秋時代は、周王の権威が衰退しただけでなく、複数の諸侯国において国君の実権も失われていきました。
例えば魯は三桓とよばれる貴族が実権を握り、斉も田氏が政治を行うようになりました。
晋では晋君に替わって六卿が政治を行うようになり、春秋時代末期には二卿が淘汰され、四卿(智氏、趙氏、魏氏、韓氏)が権力を分割しました。
こうした動きはますます加速され、戦国時代に入ると、まず晋の趙氏魏氏韓氏が智氏を倒し、晋の領地を三分しました。やがて趙、魏、韓の三氏は晋公室も滅ぼします。春秋時代の覇者の国晋はこうして滅亡し、三晋とよばれる趙韓の三国に分裂しました
 
斉でも権力を握った田氏が公室を滅ぼして国を乗っとりました。
斉は西周初めに建てられた由緒ある国ですが、戦国時代の斉は元々の姜姓の斉ではなく、田氏に乗っ取られた斉になります。これを田斉といいます。
 
秦や楚といった国では分裂や乗っ取りはありませんでした。しかし権力が下にも移行し、公族・貴族だけの政治から、より広い身分の人々が政治に参与できるようになったことは共通しています。
政治に参与する機会が広がればそれだけ人材も増えます。
戦国時代は各国が広く人材を求め、大きな改革を推進した時代でもあります。
中でも秦は戦国時代初期から中期にかけて、商鞅が変法改革を行って大きな成功を収めました。
他の国でも魏の李悝、楚の呉起、韓の申不害等が政治改革を進めています。
 
人材を重視する各国の動きは、能力がある者に自由な討論や勉学の場を提供するようになりました。活発な思想哲学の交流が繰り広げられるようになり諸子百家とよばれる数々の思想家が誕生します。
例えば孔子の流れを継ぐ儒家には孟子荀子がいます。老子道家からは荘子が登場しました。
その他にも墨家墨子、名家の公孫竜子、法家の韓非子等、日本でもよく知られた中国の思想家は、多くがこの時代に登場しました。
 
諸子百家がもたらしたのは思想哲学の発展だけではありません。
各国は乱世を生き残るために謀略に満ちた外交活動を行います。この外交活動で頭角を現したのが蘇秦張儀、公孫衍等の縦横家といわれる人々です。
縦横家の活躍そのものが戦国時代の歴史といってもいいくらい、戦国時代は外交戦略に重点が置かれました。
 
そもそも戦国時代という名称は漢代に編纂された『戦国策』という書物の名称が元になっています。
『戦国策』とは縦横家の活動を中心にした戦国時代の各国の記録をまとめた書物です。
春秋時代が『春秋』という書物名から名付けられたのと同じです。
しかし、『春秋』が非常に正確な年代記だったのに対して、『戦国策』は各国で起きた事件を国別にまとめただけで、発生時間や前後関係が非常に曖昧です。また、主に縦横家の言葉を収録した書なので、形態としては春秋時代の言論をまとめた国別史『国語』に似ています。
 
 
時代区分
春秋戦国時代は約五百五十年にわたるとても長い時代です。そのうち、戦国時代は約二百五十年を占めます。
上述の通り、戦国時代は『戦国策』という書名から取られた名称です。しかし、編年体の『春秋』とは異なり、『戦国策』は縦横家の弁舌を中心にした国別史なので、その内容から戦国時代の始めと終わりを導き出すのは無理があります。
戦国時代の終わりは秦が天下を統一する紀元前221年になりますが、始まりについては諸説が生まれました。
例えば:
晋が事実上三国に分かれた紀元前453年から戦国時代が始まるとする説。
晋を分割した趙・魏・韓の三氏が実際に諸侯に封じられた紀元前403年から始まるとする説。
『春秋』の記述が終わる紀元前481(西狩獲麟の年)春秋時代の終わりとし、紀元前480年から戦国時代が始まるとする説等です。
 
史記』の年表では、東周敬王末年で『十二諸侯年表』が終わり、東周元王元年から『六国年表』が始まっています。これを春秋時代と戦国時代の境とすることもあります。但し、東周敬王の在位年数にも諸説があるため、元王の元年も史書によって一年のずれがあります(本編参照)
私の通史では、紀元前475年を元王元年、戦国時代開始の年とします。
 
もちろん、この時代区分は便宜上作られたものであり、当時の人々が実際に「昨年までは春秋時代」「本年から戦国時代」というような概念をもっていたわけではありません。よって、どの説が正しい、もしくは誤っているという判断を下す必要はありません。
 
 
主要国と三つの段階
西周時代には数百の諸侯国があったといわれていますが、春秋時代の兼併併呑を経て、戦国時代になると七つの大国と少数の中小国に淘汰されました。
 
大国は:
春秋時代から続く秦北燕
晋から分裂した趙(三晋)
姜姓から国を乗っ取った田氏の斉(田斉)
です。
この秦斉を「戦国七雄」といいます。
 
中小国は周王室のほか、越、魯、宋、鄭、衛等の国が存在していました。しかし衛が秦の附庸国となって秦代まで存続したのを除いて、全て七雄によって滅ぼされていきます。
 
 
約二百五十年続いた戦国時代を大きく分けると前後期の三期になります。
 
前期:
呉が滅び、晋が三分され、斉が田氏に乗っ取られる。各国で変法改革が進められ、中でも秦の商鞅による変法が成功を収める。
 
中期:
縦横家が活躍して各国が互いに攻防を繰り返す。
魏、趙、斉、楚、秦が中心に戦争を繰り返し、やがて東の斉と西の秦という二大強国が対立する。
 
後期:
斉が凋落し秦一国が他国を凌駕する。最後は秦が各国を滅ぼす。
 
後期にもいつからいつまでという具体的な時間の区切りはありません。大雑把な分け方です。
前期は史料が乏しいため、あまり記述することがありません。中期以降から戦国時代を代表する人物や故事が登場するようになります。
 
以下、戦国時代の国君をまとめます。東周王室と戦国七雄です。
:元王貞定王(定王)考王威烈王安王烈王顕王慎靚王赧王
:厲共公躁公懐公霊公簡公恵公出公献公孝公恵文王武王昭襄王(昭王)孝文王荘襄王王政始皇帝
:簡子襄子桓子献侯烈侯武侯(武公)敬侯成侯粛侯武霊王恵文王孝成王悼襄王王遷代王嘉
:献子桓子文侯武侯恵王襄王哀王昭王安釐王景湣王王假
:宣子康子武子景侯烈侯文侯哀侯荘侯昭侯宣恵王襄王釐王桓恵王王安
:恵王簡王声王悼王粛王宣王威王懐王頃襄王考烈王幽王王負芻
:献公孝公成公湣公釐公桓公文公易王王噲昭王恵王武成王孝王王喜
:平公宣公康公威王(田斉)宣王湣王襄王王建
(『史記六国年表』を参考にしました。
 
 
参考文献
春秋時代を扱った史書には『春秋左氏伝』があったため、その時代を詳しく知ることができました。しかし戦国時代は春秋時代よりも時代が新しいのに、資料が豊富とはいえません。その原因は、天下を統一した秦が他国の歴史書を全て破棄したからだといわれています。秦以外の国は秦にとっては敵国です。都合の悪いことも書かれていたはずです。それを嫌って秦は他国の歴史書を処理してしまいました。
しかも秦国自身は「歴史を残す」という意識が乏しかったため、詳しい記録をほとんど残さなかったようです。
戦国時代を知るうえで重要な史料は、まず『史記』が挙げられます。しかし『史記』の記述も、春秋時代より戦国時代の方が混乱が多くなっています。これは頼りになる史料が漢代には既に乏しくなっていたからです。
 
『春秋左氏伝』は春秋時代を扱った編年体史書です。戦国時代以降の編年体史書は宋代に編纂された『資治通鑑』があります。『資治通鑑』は趙韓三家が晋を分割するところ(前403年)から筆を執っています。
私の通史は『資治通鑑』と『史記』の本紀世家を基本とし、部分的に『戦国策』等の内容を引用します。
紀元前403年以降の記述で特に書名を明記していない部分は『資治通鑑』の内容になります。
また、中国の先秦史研究の一人者楊寛が『戦国史1955上海人民出版社)を残しており、戦国時代を知るには必読の書とされているので、部分的に引用しました。年表でも『戦国史』の「戦国大事年表」を紹介します。
 

中国地図出版社『中国歴史地図集(第一冊)』を元に地図を作りました。
青字は現在の地名です。 
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紀元前350年頃の割拠図
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それでは、次回から戦国時代に入ります。