戦国時代1 東周元王(一) 呉の滅亡 前475~473年

戦国時代が始まります。今回は東周元王元年から三年までです。
 
元王
東周敬王が死んで子の仁(または「赤」)が立ちました。これを元王といいます。
 
東周敬王の末年にも書きましたが、『春秋左氏伝』は敬王の在位年数を四十四年としているので、紀元前475年が元王元年になります。しかし『史記』は敬王の在位年数が一年短いため、前年が元王元年、本年が元王二年になります。
資治通鑑外紀』は『史記』に従い、『資治通鑑前編』は『春秋左氏伝』に従っています。
また、『世本』と『帝王世紀』は敬王の後を貞王、または貞定王が継ぎ、その後に元王が即位したとしていますが、ここでは『史記』に従って元王を前に置きます。
元王の名は、『史記・周本紀』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』『十八史略』では「仁」、『世本』は「赤」としています。
『春秋左氏伝』には敬王の死は書かれていても、敬王を継いだ周王の名と諡号が明記されていないため、元王が先か貞定王が先かも、新王の名もはっきりしません。
 
元王元年
475年 丙寅
 
[] 春、斉人が魯に来て会見に招きました。
当時、晋では諸卿が政権を争っており、公室の権威が衰えて覇者の地位を失っていました。楚も呉、越との戦いで忙しく、中原に進出する余裕はありません。そこで斉の陳恒(田恒)は諸侯の盟主となって自分の地位を固めようとしました。
 
夏、斉と魯が廩丘(斉の邑)で会しました。斉と魯以外にも参加した国があるはずですが、詳細はわかりません。
斉、魯と諸侯は鄭のために晋を討伐することを相談しました(東周敬王四十年・前480年、晋が鄭を攻めました)
諸侯が兵を出しましたが、鄭は諸侯の出兵を断ります。
 
秋、諸侯は兵を還しました。
 
[] 呉の公子・慶忌(王子・慶忌。恐らく呉王・僚の子)がしばしば呉王・夫差を諫めて言いました「(政治を)改めなければ必ず亡びます。」
しかし夫差は諫言を聞きませんでした。
慶忌は呉都を離れて艾(呉の邑)に住み、機会を見つけて楚に行きました。
 
冬、越が呉を攻めようとしていると知り、慶忌は越と講和するために呉に帰りました。
慶忌は呉に対して不忠な者(越の賄賂を受けて夫差に阿諛する太宰・嚭等)を除いて呉の政治を改め、越と和を結ぼうとしましたが、呉人(恐らく夫差)が慶忌を殺してしまいました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公二十年)』の記述です。
慶忌は刺客・要離に暗殺されたという説もあります(東周敬王六年・前514年参照)
 
[] 十一月、越が呉都を包囲しました。
呉越の戦いに関しては別の場所で紹介したので、詳述は避けます。
 
当時、晋では趙鞅(簡子)が死んで趙無恤(襄子。趙孟。孟は家主の意味)が跡を継いだばかりでした。
趙無恤は喪食を減らしました。喪食というのは喪中の食事のことで、父の喪に服している趙無恤は通常よりも質素な食事をしています。呉が越に包囲されたと聞いて、その食事をますます簡単にしました。
家臣の楚隆が趙無恤に問いました「三年の喪は親暱(親子の親密な関係)の極みです。主はそれを更に降しましたが(簡素にしましたが)、何のためでしょうか?」
趙無恤が答えました「黄池の役(東周敬王三十八年・前482年)で先主(趙鞅)と呉王は盟を結び、『好悪を共にする』と誓った。今、越が呉を包囲したから、嗣子(私)は旧業を廃さず共に戦いたいと思っているが、晋の力が及ぶところではない。だから喪食を降したのだ。」
楚隆が言いました「もし呉王にそれを伝えることができたら如何でしょう?」
趙無恤が「できるか?」と問うと、楚隆は「試させてください」と言って呉に向かいました。
 
楚隆はまず越の陣中に入ってこう言いました「呉は上国(中原諸国)をしばしば侵してきたので、貴君が自ら討伐したと聞いて、諸夏(中原)の人々は皆喜んでいます。しかし貴君の志が実現しないことを恐れるので、(呉に)入って様子を探らせてください。」
越は楚隆を通しました。
 
楚隆が呉王・夫差に言いました「寡君(晋君)の老(卿)・無恤が陪臣・隆(私)を派遣し、不恭を謝罪させました。黄池の役で、寡君の先臣・志父(趙鞅)が斎盟を受け、『好悪を共にする』と誓いました。今、貴君は難の中にいます。しかし、無恤には労苦を厭うつもりがないものの、晋国の力が及ぶところではありません。よって、陪臣を使ってこれを報告することになりました。」
夫差が拝礼稽首して言いました「寡人は不才のため、越に仕えることができず(越の対処を誤り)、大夫(趙無恤)の憂いを作ってしまった。あなたの命(言葉)を拝受しよう。」
夫差は一簞(小さい箱)の珠玉を渡して趙無恤に贈るように伝え、こう言いました「句践は寡人を憂いさせるだろう(私に害を及ぼすだろう。私は句践によって殺されることになる。原文「句践将生憂寡人」)寡人が良い終わりを迎えることはできない(寡人死之不得矣)。」

ここまでは使者としての楚隆に語ったことです。この後、夫差が個人的に楚隆に問いました「『溺れて死ぬ者は必ず笑う(溺人必笑)』という。一つ質問がある。史黯(史墨。晋の史官。呉の滅亡を予言しました。東周敬王十年・前510年)はなぜ君子になれたのだろう?」
「溺人必笑」というのは恐らく「死に臨んだ人は強がって笑う」という意味です。呉王・夫差も滅亡が迫っているのに、強がって敢えて自分の将来とは関係ない質問をしました。
楚隆が答えました「黯は朝廷に進んでも人から嫌悪されることなく、退いても謗りを受けることがありませんでした。」
夫差は答えに納得して「すばらしい(宜哉)」と言いました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公二十年)』の記述です。『春秋左氏伝』では、上述の通りこの時すでに趙鞅が死に、子の趙無恤の代になっています。趙鞅が死んだ年ははっきりしません。
資治通鑑外紀』と『資治通鑑前編』は本年に趙鞅が死んだとしていますが、『史記・趙世家』は大きく異なり、晋出公十七年(東周貞定王十一年・前458年)に趙簡子が死んだと書いています。『史記・六国年表』も世家と同じです。
 
資治通鑑外紀』が趙簡子と趙襄子に関する故事を複数紹介していますが、別の場所で紹介します。
 
[] この年、晋定公が在位三十七年で死に、子の鑿(または「錯」)が立ちました。これを出公といいます。
史記・趙世家』によると、趙簡子(趙鞅)は国君に対する三年の喪を簡単にし、一年で喪を終わらせました。
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年、蜀人が秦に賂しました。
「賂」は礼物を贈ることですが、『資治通鑑前編』は「賂とは聘問を指す」と解説しています。蜀人は夷に属すため、秦は蜀人に対して諸侯が聘問した時と同等の礼を行いませんでした。そのため秦の国史では蜀の聘問を「賂」と書いたようです。
 
 
 
翌年は元王二年です。
 
元王二年
474年 丁卯
 
[] 夏五月、越が始めて魯に使者を送りました。
呉との戦いの勝利が決定的になった越は、中原への進出を考えています。
 
これは『春秋左氏伝(哀公二十一年)』の記述です。
史記・六国年表』によると、越は斉にも使者を送っています。
 
[] 秋八月、斉侯(平公)、魯公(哀公)と邾子(隠公)が顧で盟を結びました。
斉は魯哀公が稽首に応えなかったこと(東周敬王四十二年・前478年参照)を譴責します。
人々が魯を風刺する歌を作りました「魯人の罪は、数年経っても気がつかず、我々を憤怒させている。彼等には儒書(礼書。時代遅れの書)があるだけで(柔軟な考えができない)、二国の憂いとなっている(魯人之皋,数年不覚,使我高蹈。唯其儒書,以為二国憂)。」
 
この会盟では、魯哀公が先に陽穀に入りました。
斉の閭丘息が言いました「貴君は自ら玉趾(国君の足)を挙げて寡君の軍を慰労しに来ました。(斉の)群臣が伝(駅車。速馬)を送って寡君に報告しましょう。しかし返答が来る間、貴君は疲労してしまいます。僕人がまだ賓館の準備をしていないので、とりあえず舟道(斉地)に館を設けてください。」
哀公は辞退して「貴国の僕人を煩わせるわけにはいきません」と言いました。
 
[] 『資治通鑑前編』はこの年に晋の趙無恤が代を滅ぼしたと書いています。
代滅亡に関しては別の場所で紹介します。
 
 
翌年は元王三年です。
 
元王三年
473 戊辰
 
[] 東周敬王三十三年(前487年)、呉が邾を攻撃しました。その二年後、邾隱公は魯に出奔し、更に斉に移りました。邾国では太子・革桓公が政治を行っています。
 
夏四月、邾隠公が斉から越に奔りました。越が勢力を拡大し始めていたためです。
隠公が越に訴えました「呉は無道なので、父(隠公)を捕えて子(太子・革)を立てました。」
越は隠公を邾に帰らせました。
すると今度は太子・革が越に奔りました。
 
[] 冬十一月丁卯(二十七日)、越が呉を滅ぼしました。
越王・句践は呉王・夫差を甬東に住ませようとしましたが、夫差は「孤(私)は既に老いた。貴君に仕えることはできない」と言って首を吊りました。
越王・句践は夫差の死体をもって越に還りました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公二十二年)』の記述です。
呉越の戦いは『国語』や『史記』に詳しい記述があり、別の場所で紹介しました。
『越絶書・徳序外伝記(第十八)』によると、呉を平定した越王・句践は三江(長江下流域の大きな川)の春祭と五湖(太湖周辺の湖)の秋祭を始め、祠を建てて功績を後世に伝えました。
 
『竹書紀年』(今本)は東周元王四年(翌年)に「於越(越)が呉を滅ぼした」と書いていますが、元王三年の誤りです。
 
[] 越王・句践に仕えていた范蠡が越から去りました。
『国語・越語下』『史記・越王句践世家』等に詳しく書かれていますが、別の場所で紹介します。
 
 

次回に続きます。