戦国時代 范蠡(1)

越が呉を滅ぼしてから、謀臣・范蠡が去りました。
 
『国語』『史記』等における范蠡に関する記述をここで紹介します。
 
まずは『国語・越語下』からです。
呉を滅ぼした越王・句践が五湖(太湖周辺)に還ると、范蠡が句践に別れを告げて言いました「君王は徳に勉めて国を治めてください。臣は越国に入りません。」
越王が言いました「不穀(国君の自称)には汝が言ったことの意味が分からない。」
范蠡が言いました「人の臣となる者は、国君が憂いたら国君のために労し、国君が辱めを受けたら国君のために死ぬといいます。以前、君王が会稽で辱めを受けましたが、臣は事を成すために死にませんでした。今、既に事が成就したので、蠡()は会稽の罰を受けることを願います。」
越王が言いました「もしも子()の悪(過失)を赦さず、子の美(長所)を宣揚しない者がいたら、越国では善い終わりを迎えられないようにしてやろう。子はわしの言を聴け。わしは子と共に国を治めるつもりだ。もしわしの言を聞かないようなら、汝の身は殺され、妻子も戮されることになる。」
范蠡が言いました「臣は既に命を聞きました(国君の言葉は理解しました)。君王は制(法)を行ってください。臣は意(志)を行います。」
范蠡は軽舟に乗ると五湖を去っていきました。その後、范蠡がどこに行ったかはわかりません。
 
越王は工匠に命じて良金(良質の金属)范蠡の像を作らせ、毎朝礼拝しました。大夫には浹日(十日ごと)の朝(拝礼)を命じます。
また、会稽の周囲三百里范蠡の地とし、こう宣言しました「後世の子孫で蠡の地を侵す者がいたら、越国で善い終わりを迎えることはできない。皇天后土(天地の神)と四郷地主(四方の神)がこれを証明する。」
 
 
史記』には越を去った後の范蠡について記述があります。『貨殖列伝(第六十九)』からです。
会稽の恥を雪いだ范蠡が感嘆して言いました「計然范蠡に越の復国と呉への報復の策を与えた人物)つあったが、はそのうちのつを用いただけで志を得ることができた国においてその計を用いることができたのだから、においても用いることができるはずだ。」
范蠡扁舟(軽舟)に乗って江湖に去り、姓名を変えました。斉国に入ると鴟夷子皮と名乗り、に入ると朱公と名乗ります
朱公天下の中心に位置しているため、四方の諸侯じて商品を行き交わせている場所だと判断し、貨物を作って蓄え、時に応じて利を求めました。人から利を奪おうとはしません。
商業をうまくできる人は、善くを選び、善くに応じる力があります。朱公は十九年で三回も千金の富を手にし、二回にわたって財産を貧しい友人や疎遠になった兄弟親族に分け与えました。これがを得て徳行を好むというものです。
朱公は年老いて力が衰えるとの意見に従いました。は朱公のを受け継いで更に発展させ、万の家財を成すようになります
後世で富者を語る者は、誰もが陶朱公を称賛しました
 
『孔叢子・陳士義(第十四)』も范蠡に触れています。
魯に猗頓という窮士がいました。耕(農業)に従事しても、いつも飢えに苦しみ、桑(養蚕)に従事しても、いつも寒さに苦しんでいます(着る服がないためです)
ある日、猗頓は陶朱公の富を聞き、その術を学びに行きました。朱公は富を作る方法を教えてこう言いました「子(あなた)が速く富を得たいのなら、五牸(五種類の家畜。牛・馬・羊・豚・驢馬)を飼育するべきです。」
教えを受けた猗頓は西河に移り、牛・羊を猗氏(地名)の南で飼いました。その結果、十年の間で牛も羊も数えられないほどの数に繁殖し、その富は王公に匹敵するほどになります。その名は瞬く間に天下に知れ渡りました。猗頓と名乗ったのは猗氏の地で富を興したためです。
 
猗頓に関して『史記・貨殖列伝(第六十九)』にも記述があります。但し『孔叢子』とは少し異なります。
史記』によると、猗頓は塩業によって身を起こしました。猗氏の南には河東の塩があったようです。牧畜と塩業の両方で成功したのかもしれません。
また、『史記・貨殖列伝』は鉄冶(錬鉄)で業を成した邯鄲縦も王者に匹敵するを得たと紹介しています。
 
 
 
次回は『史記・越王句践世家』から范蠡に関する記述を紹介します。