戦国時代 范蠡(1)
越が呉を滅ぼしてから、謀臣・范蠡が去りました。
まずは『国語・越語下』からです。
越王が言いました「不穀(国君の自称)には汝が言ったことの意味が分からない。」
范蠡が言いました「人の臣となる者は、国君が憂いたら国君のために労し、国君が辱めを受けたら国君のために死ぬといいます。以前、君王が会稽で辱めを受けましたが、臣は事を成すために死にませんでした。今、既に事が成就したので、蠡(私)は会稽の罰を受けることを願います。」
越王が言いました「もしも子(汝)の悪(過失)を赦さず、子の美(長所)を宣揚しない者がいたら、越国では善い終わりを迎えられないようにしてやろう。子はわしの言を聴け。わしは子と共に国を治めるつもりだ。もしわしの言を聞かないようなら、汝の身は殺され、妻子も戮されることになる。」
会稽の恥を雪いだ范蠡が感嘆して言いました「計然(范蠡に越の復国と呉への報復の策を与えた人物)の策は七つあったが、越はそのうちの五つを用いただけで志を得ることができた。国においてその計を用いることができたのだから、家においても用いることができるはずだ。」
朱公は陶が天下の中心に位置しているため、四方の諸侯と通じて商品を行き交わせている場所だと判断し、貨物を作って蓄え、時に応じて利を求めました。人から利を奪おうとはしません。
商業をうまくできる人は、善く人を選び、善く時に応じる力があります。朱公は十九年で三回も千金の富を手にし、二回にわたって財産を貧しい友人や疎遠になった兄弟親族に分け与えました。これが富を得て徳行を好むというものです。
朱公は年老いて力が衰えると子や孫の意見に従いました。子や孫は朱公の業を受け継いで更に発展させ、巨万の家財を成すようになります。
後世で富者を語る者は、誰もが陶朱公を称賛しました。
魯に猗頓という窮士がいました。耕(農業)に従事しても、いつも飢えに苦しみ、桑(養蚕)に従事しても、いつも寒さに苦しんでいます(着る服がないためです)。
ある日、猗頓は陶朱公の富を聞き、その術を学びに行きました。朱公は富を作る方法を教えてこう言いました「子(あなた)が速く富を得たいのなら、五牸(五種類の家畜。牛・馬・羊・豚・驢馬)を飼育するべきです。」
教えを受けた猗頓は西河に移り、牛・羊を猗氏(地名)の南で飼いました。その結果、十年の間で牛も羊も数えられないほどの数に繁殖し、その富は王公に匹敵するほどになります。その名は瞬く間に天下に知れ渡りました。猗頓と名乗ったのは猗氏の地で富を興したためです。