戦国時代 范蠡(2)

呉を滅ぼした後の范蠡について書いています。
今回は『史記・越王句践世家』の記述を注(「集解」「索隠」「正義」)の内容を交えて紹介します。
范蠡南陽人とも徐人とも楚の宛三戸人ともいわれています。字は少伯です。
越王・句践に仕えて力を尽くし、深謀を練りました。二十余年を経てやっと呉を滅ぼし、会稽の恥を雪ぎます。
その後、句践は淮水を北に渡って斉、晋に臨み、中国(中原)に号令して周室を尊重しました。句践は霸を称え、范蠡は上将軍を称します。
しかし越に帰国する時、范蠡は大名(功名)の下に長くいるのは難しいと考えました。そもそも句践は苦難を共にすることはできても、安楽を共にすることは難しい人物です。そこで句践に書を残しました。その内容は「人の臣となる者は、国君が憂いたら国君のために労し、国君が辱めを受けたら国君のために死ぬといいます。以前、君王が会稽で辱めを受けましたが、臣は事を成すために死にませんでした。今、既に恥を雪いだので、臣は会稽の誅を受けることを願います」と書かれています。
句践が言いました「孤(わし)は子()と国を分けて治めるつもりだ。それができないようなら、子に誅を加える。」
しかし范蠡は「君王は令を行ってください。臣は意を行います」と言うと、軽宝珠玉(小さい珠宝)を舟に乗せ、私徒(自分の従者)と共に海に去りました。
句践は会稽山の周りを范蠡の奉邑(封邑)にしました(ここまでは前回の『国語』とほぼ同じです)
 
范蠡は海路で斉に行き、姓名を変えて鴟夷子皮と名乗りました。鴟夷は皮の袋です。かつて呉王・夫差が伍子胥を殺した時、その死体を鴟夷に入れました。范蠡は自分にも罪があるため、敢えて「鴟夷」と名乗ったようです。
范蠡は海岸で耕作に励み、父子で力を合わせ、苦心して生産業と商業を行いました。その結果、短い期間で数十万の富を生み出します。斉人はその賢才を聞いて相にしました。
しかし范蠡は嘆息して「家にいて千金を手にし、官にいて位が卿相に登るのは、布衣(庶民)の極(頂点)である。久しく尊名を受けるのは不祥(不吉)だ」と言うと、相印を返上し、財産を知人や同郷の者に分け与え、重宝(貴重な宝物)だけを持って秘かに斉を去りました。
 
范蠡は陶に来た時、その地が天下の中心で、交易が集まる場所なので、商業を行えば必ず富を得られると判断しました。そこで陶朱公と自称し、再び父子で協力して耕畜を始めました。時に応じて売り買いをし、十分の一を自分の利益として蓄えます。暫くするとまた巨万の富を手にするようになり、天下が陶朱公を称賛しました。
 
朱公が陶に住んでから少子が産まれました。少子が成長した頃、朱公の中男(次男)が人を殺したため、楚に捕えられました。
朱公は「人を殺したのだから自分が死ぬのは職(道理)だ。しかし千金の子なら市で殺されることはないという(人々の前で処刑されて晒し者になる必要はない)」と言い、少子を送って様子を探ることにしました。黄金千溢を褐器(褐色の器具)に入れ、一輌の牛車に乗せます。
しかし少子が出発しようとした時、朱公の長男が楚に行くことを願い出ました。朱公が同意しないため、長男が言いました「家においては長子が家督となります。ところが、弟が罪を犯したのに大人(父)は長子を送らず、少弟を送ろうとしています。これは私が不肖だからです。」
長男が自殺しようとしたため、その母が言いました「少子を送っても中子を活かすことができるとは限りません。それなのに先に長男を失う必要がありますか?」
朱公はやむなく長子を派遣することに同意し、旧友の荘生に渡す書を準備して長男にこう言いました「楚に着いたら千金を荘生に贈り、全て彼の言う通りにせよ。彼に逆らってはならない。」
長男自身も数百金を集めて出発しました。
 
長男が楚に到着しました。
荘生の家は外郭の傍にあり、藜藋(野草、雑草)を切り開いてやっと門に至ります。とても貧しい家でした。
長男は父に言われた通り、書信と千金を荘生に渡しました。
荘生が言いました「速くここを去りなさい。留まってはなりません。弟はすぐに釈放されますが、その理由を探ってもなりません。」
長男は荘生の家を離れました。しかし楚に留まって自分が集めた数百金を楚の貴人に贈りました。みすぼらしい荘生では弟を助けられないと思い、貴人に弟の事を頼みます。
 
荘生は貧しい家に住んでいましたが、廉直で国中に名が知られており、楚王以下、誰もが師と仰いで尊敬していました。朱公が贈った財貨も自分のものにするつもりはなく、事が終わったら朱公に返して信義を示すつもりです。荘生が婦(妻)に言いました「これは朱公の金だ。病がいつ来るか分からないように、この金をいつ返すことができるかも分からないが、今後、必ず返す日がくる。動かしてはならない。」
朱公の長男は荘生の意図を理解できず、巨額の財礼を無駄にしたと思っていました。
 
荘生はすぐ楚王に会いに行き、こう言いました「ある星がある場所に移りました(某星宿某)。楚に害があります。」
楚王は荘生を信頼していたため、どうすればいいか問いました。
荘生が言いました「徳だけが害を除くことができます。」
楚王が言いました「生よ、それ以上言うな。寡人はすぐ行動しよう。」
楚王は人を送って三銭の府(倉庫)を閉じました。三銭というのは虞・夏・商・周の時代に使われたという金幣です。赤・白・黄の等級がありました。黄が上幣、銅鉄(赤)が下幣です。
 
それを知った楚の貴人が驚いて朱公の長男に言いました「王は大赦を行うようです。」
長男がその理由を聞くと、貴人が言いました「王はいつも大赦をする前に必ず三銭の府を閉じます。昨晩、王は人を送って府を閉じさせました。」
大赦が行われる前に盗難があると、すぐに犯人を釈放しなければなりません。それを防ぐために貨幣を保管する倉庫を事前に封鎖したようです。
 
朱公の長男は大赦が行われれば弟も釈放されると考えました。千金もの財礼を荘生に贈ったことがますます無駄だと思えてきます。
そこで荘生に会いに行きました。
荘生が驚いて言いました「まだ去っていなかったのか!」
長男が言いました「まだです。本来、私は弟のために来ましたが、既に大赦が検討されていると聞きました。だからあなたに別れを告げに来たのです。」
荘生は長男が財物を取り返しに来たと知り、こう言いました「自分で室に入って金を持って行きなさい。」
長男は部屋に入って財貨を取り戻すと、満足して去りました。
 
荘生は朱公の子に裏切られた事を恥とし、再び楚王に会ってこう言いました「臣が某星の事を話したので、王は徳を修めて報いると言いました。ところが臣が外を歩くと、道行く人々がこう言っていました『陶の富人・朱公の子が人を殺して楚で捕えられた。しかしその家は多くの金銭を王の左右に贈った。だから王は楚国の事を想ってではなく、朱公の子のために大赦することにした。』」楚王が激怒して言いました「寡人は不徳かもしれないが、朱公の子だけのために恩恵を施すようなことはしない!」
楚王は朱公の子を処刑してから、翌日に大赦を行いました。
朱公の長男は弟の死体を運んで帰ります。
 
家に帰ると母と邑人が哀哭しました。しかし朱公だけは笑って言いました「弟が殺されるのは分かりきったことだった。彼は弟を愛していなかったのではない。我慢できないことがあったのだ。彼は若い頃から私と苦労し、生業の困難を理解してきた。だから財をとても重視しているのだ。しかし少弟は私が富裕になってから産まれたので、堅(頑丈な車)に乗り、良(良馬)を駆けさせて狡兔を逐う(狩猟。遊び)生活をしてきた。財貨がどこから来たのかも知らないから軽くみている。私が少子を送ろうと思ったのは、彼なら財を棄てられるからだ。長者(長男)にはそれができない。その結果、弟が殺されてしまった。これは事の理(道理)というものだ。悲しむことはない。私は日夜、その喪(死体)が帰って来るのを待っていた。」
 
范蠡は三回家を換えて天下に名を成しました。行く場所行く場所で必ず成功します。
その後、陶の地で年老いて生涯を終えました。世の人々は陶朱公を賢人として称えています。