戦国時代2 東周元王(二) 覇王・句践 前472年

今回は東周元王四年です。
 
元王四年
472年 己巳
 
[] 春、宋の景曹が死にました。
景曹は宋元公夫人で、宋景公の母です。景は諡号、曹は姓で、小邾出身です。魯の季孫斯(季桓子)の外祖母でもあります。
 
魯の季孫肥(康子。季孫斯の子)が冉求冉有孔子の弟子)を弔問の使者として派遣し、景曹を送葬させました。
宋に着いた冉求が言いました「敝邑には社稷の大事があり、肥(季孫肥)に職競(職務が多忙な事)を与えているので、紼(棺の縄)を牽くことができません(葬送に参加できません)。そこで求(冉求)を派遣し、輿人(雑役の者。棺を牽く列。葬列)に従わせてこう言いました『肥は彌甥(血縁が遠い甥)となることができました。粗末な物ですが先人の馬があるので、求(冉求)を送って夫人の宰(家宰)に献上いたします。旌繁(車馬の装飾。旌は車の旗飾、繁は馬の首につける飾り。ここでは景曹の葬列の馬)に並べることくらいはできるでしょう。』」

[] 夏六月、晋の荀瑤(智伯。襄子。荀躒の孫。下述)が斉を攻めました。
斉の高無●(「不」の下に「十」)が軍を率いて防ぎます。東周敬王四十年(前480年)に高無●は北燕に出奔しましたが、その後、斉に帰ったようです。
荀瑤が斉軍を視察した時、馬が突然驚いて前に駆け始めました。荀瑤は「斉人は余の旗を知っている。(今、引き返したら)余が恐れて返ったと言うだろう」と言うと、斉の営塁まで接近してから戻りました。
 
戦いが始まる前に晋の大夫・張武(長武子)が卜をするように請いました。しかし荀瑤はこう言いました「国君が天子に報告してから宗祧(宗廟)で守亀を使って卜ったところ、既に吉と出た。わしが改めて何を卜うというのだ。そもそも、斉人が我が英丘を奪ったから、国君が瑤(私)に命を降したのだ。これは武を示すためではなく、英丘を治めるためだ。名分があって罪を罰するだけで充分である。卜の必要はない。」
 
壬辰(二十六日)、両軍が犁丘(隰)で戦い、斉軍が敗れました。
荀瑤が斉の大夫・顔庚(顔涿聚)を捕えて殺しました。
 
荀瑤に関して『国語・晋語九』に記述があります。
以前、晋の卿・智宣子(智甲。または智申。荀躒の子)が子の智瑤(襄子)を後嗣に立てようとしました。すると智果(晋の大夫。智氏の一族)が言いました「瑤は宵(宣子の庶子に及びません。」
宣子が言いました「宵は佷(横暴。人に従わないこと)だ。」
智果が言いました「宵の佷は表面に見えていますが、瑤の佷は心の中にあります。心に佷があれば国を敗亡させますが、表に佷があれば害を招きません。瑤が人より賢である部分(優れた部分)は五つあり、不逮(人に及ばない部分)は一つあります。美鬢・長大(髪髭が美しく背が高いこと)が一つ目の賢です。射御(射術・御術)に優れているのが二つ目の賢です。伎芸(各種の技)に精通しているのが三つめの賢です。巧文辯恵(文辞が巧みで弁舌が優れていること)が四つ目の賢です。剛毅で果敢なのが五つ目の賢です。このような長所があるのに、不仁という一つの欠点があります。人を凌駕する五賢があっても不仁によってそれを行ったら、誰も許容できないでしょう。もし瑤を後嗣に立てたら、智宗(智氏の宗室)は必ず滅びます。」
しかし宣子は諫言を聞き入れませんでした。
智果は太史(氏姓を管理します)の所に行き、智氏を棄てて輔氏に改めました。
後に智氏が滅亡した時、輔果の家族だけは生き残りました。
 
[] 秋八月、魯の叔青が越に行きました。始めて越に派遣した使者です。
越の諸鞅が答礼として魯を聘問しました。
 
[] この頃の越の動きを『史記・越王句践世家』からです。
呉を平定した越王・句践は兵を率いて淮水を北に渡り、斉・晋といった中原の諸侯と徐州で会しました。また、貢物を周に贈って勤王の態度を示しました。
周元王は使者を送って句践に胙(祭祀で使う肉)を下賜し、伯(覇者)に任命しました。
句践は淮水を南に渡ってから、淮北の地を楚に譲りました。
また、呉が宋から奪った地を宋に返し、魯には泗水以東の地百里四方を与えました。
越が長江から淮東にかけて兵威を振るったため、諸侯が句践を祝賀しました。
句践は霸王(伯王)を号します。
 
越が楚に淮北の地を譲ったという内容は、『史記・楚世家』にも書かれています。
越は呉を滅ぼしましたが、長江や淮水の北を支配下に置く力はありませんでした。そこで楚が東侵して泗上に至りました。
越が領土を譲った背景には楚の出兵があったようです。尚、『楚世家』はこの出来事を楚恵王四十四年頃の事としています(東周貞定王二十四年・前445年参照)
 
韓非子・説林下』にも越と楚の事が書かれています。
呉を破った越は晋を攻めるため楚に出兵を要求しました(『史記』『春秋左氏伝』にはこれに関する記述がありません)
楚の左史・倚相が荊王(楚恵王)に言いました「越は呉を破りましたが、豪士は死に、鋭卒は尽き、大甲(武器)を損なっています。今、我が国に卒(兵)を要求して晋を攻めようとしているのは、我々に弱体化した姿を見せたくないからです。師を起こして呉の地を分けさせるべきです。」
荊王は「善し」と言って越に兵を向けました。
怒った越王は楚を討とうとしましたが、大夫・種が言いました「いけません。我が国の豪士は既に尽き、大甲も損なっています。戦っても勝てません。賂を贈るべきです。」
越王は露山の陰(北。『資治通鑑外紀』では「露山の西」)百里を割いて楚に与えました。
 
[] 『説苑』『淮南子』等に当時の越の様子が書かれています。
まずは『説苑・君道(巻一)』からです。
越王・句践は呉に大勝して九夷を兼併しました。句践は南面して立ち(南面は天子・国君を意味します)、近臣三遠臣五(この部分は意味が分かりません)、群臣に命じてこう言いました「わしの過失を聞きながらわしに報告しなかった者は、その罪を正すことにする。」
句践は尊位に立ってからも自分の過失を聞けなくなること(諫言警告がなくなること)を警戒できました。
 
淮南子・人間訓』からです。
ある時、越王・句践が一つの訴訟を裁き、無辜の者に刑を用いてしまいました。冤罪を知った句践は龍淵(名剣の名)を持って自分の股(腿)を刺し、自分に対する罰を示します。血は足にまで流れました。
これを聞いた越の将兵は命をかけるようになりました。
 
再び『史記・越王句践世家』です。
越を去った范蠡は斉から大夫・種に書を送ってこう伝えました「『空を飛ぶ鳥が獲り尽くされたら良弓はしまわれ、狡兎(狡賢い兎)が全て死んだら走狗(猟犬)は煮られる(蜚鳥尽,良弓藏。狡兔死,走狗烹)』といいます。越王は長頸鳥喙(首が長く鳥のように口が突き出ていること)という相で、患難を共にすることはできても、安楽を共にすることはできません。子(あなた)はなぜ去らないのですか。」
書を見た大夫・種は病と称して入朝しなくなりました。
すると大夫・種が謀反を企んでいるという讒言が生まれはじめます。
やがて、越王が大夫・種に剣を与えてこう言いました「子(あなた)は寡人が呉を討つために七術を与えた。寡人はそのうちの三術を用いて呉を破った。残りの四術は子が持っている。子はわしのために先王に従ってそれを試してみよ。」
大夫・種は自殺しました。
 
七術について『史記』の注(正義)に説明があります。但し七術ではなく九術となっています。以下、列記します。
一、天を尊び鬼神に従うこと。二、財幣を重視し、呉君に贈って堕落させること。三、糴粟穀物を重視し、呉国の蓄えを空にさせること。四、好美(美食)を送って志を満足させること。五、巧匠を派遣し、宮室高台を建造させて財力を尽きさせること。六、諛臣を利用して頻繁に出征させること。七、諫臣との関係を悪化させて自殺に追い込ませること。八、自分の邦家(国と家)を富ませて武器を準備すること。九、武器甲冑を充実させて自国の不足を補うこと。
 
[] この年、蔡成侯(または「景侯」)が在位十九年で死に、子の産が継ぎました。これを声侯といいます。
 
[] 『史記・六国年表』によると、この年、楚人が秦を賂(聘問)しました。
 
 
 
次回に続きます。