戦国時代3 東周元王(三) 衛出公の出奔 前471~470年

今回は東周元王五年と六年です。
 
元王五年
471年 庚午
 
[] 夏四月、晋出公が斉を討伐しようとして魯に出兵を求めました。
晋が魯に言いました「昔、臧文仲が楚師を率いて斉を討ち、穀を取りました(東周襄王十九年・前634年)。宣叔(臧孫許)も晋師を率いて斉を討ち、汶陽を取りました(東周定王十八年・前589年)。寡君は周公(魯国の祖)の福を求め、臧氏の霊(福)を請いたいと願っています。」
 
魯の臧石(臧賓如の子)が兵を率いて晋軍と合流し、斉の廩丘を取りました。
晋の軍吏が兵器の修繕を命じ、進軍を続ける準備をします。
 
しかし斉の大夫・萊章はこう言いました「(晋の)国君は地位が下がっており、その政治は暴虐で、昨年既に勝利したのに今また都(邑)を奪った。天は晋に多くの物を与えた。これ以上進むことはできない。(晋が進軍するというのは)(大言。偽言)だ。すぐに撤兵するだろう。」
果たして、晋軍は引き上げました。
 
晋が臧石に活きた牛を贈りました。晋の大史(太史)が魯に伝えました「寡君が軍中にいるため(国君も従軍している戦地なので)、牢礼(犠牲の礼)が基準に達していないことを謹んで謝罪します。」
 
[] 二年前に越が邾隠公を帰国させましたが、隠公の無道は改められませんでした。
越は隠公を捕えて帰り、公子・何(太子・革の弟)を立てましたが、やはり無道でした。
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。「無道」というのが具体的にどういうことを指すのかはわかりません。あるいは、越に朝貢をしなかったのかもしれません。
 
[] 魯の公子・荊(哀公の庶子の母(妾)が哀公に寵愛されました。哀公は夫人(正妻)に立てたいと思い、宗人(礼官)・釁夏に夫人に立てる時の礼(しきたり)を報告させました。しかし釁夏は「(そのような礼は)ありません」と答えます。
哀公が怒って言いました「汝は宗司であり、夫人を立てるのは国の大礼である。なぜその礼が無いのだ。」
釁夏が答えました「周公と武公は薛から夫人を娶り、孝公と恵公は商(宋)から娶り、桓公以下は皆、斉から娶りました。このような礼ならあります。しかし妾を夫人にするというのなら、そのような礼はありません。」
哀公は反対意見を聞かず、妾を夫人に立てて公子・荊を太子にしました。魯の国人は哀公を嫌うようになりました。
 
[] 閏十月、魯哀公が越に入りました。
哀公が越王・句践の太子・適郢と関係を深めたため、適郢は娘を哀公に嫁がせて多くの地を与えようとしました。
それを知った魯の公孫有山が使者を送って季孫肥に伝えました。季孫肥は公室が復興して越と共に自分を討伐することを恐れ、太宰嚭を通じて越に賄賂を贈りました。その結果、婚姻も土地の割譲も中止されました。
 
この太宰嚭は呉に仕えていた伯嚭のはずです。『史記』の『呉太伯世家』『越王句践世家』等では、呉が滅んだ時に伯嚭も殺されていますが、『春秋左氏伝』のこの記述をみると越に仕えたようです。
『春秋左伝注』の編者・楊伯峻は「戦国時代以降の人が春秋時代について述べた事で、『左氏(左伝)』と異なる内容は、多くが信用できない」と書いています。『史記』等の記述には創作した内容が含まれているため、『春秋左氏伝』の方が信憑性が高そうです。
 
[] この年、杞湣公が弟の閼路に殺されました。湣公の在位年数は十六年です。
閼路が即位しました。これを哀公といいます。
 
史記・陳杞世家』を見ると、この前年の杞湣公十五年に楚恵王が陳を滅ぼしたと書いています。しかし陳が滅んだのは東周敬王四十二年(前478年)の事なので、『史記』の誤りです。
 
[] 『史記・六国年表』によると、この年、義渠が秦を賂(聘問)しました。
 
 
 
翌年は東周元王六年です。
 
元王六年
470年 辛未
 
[] 衛出公が藉圃に霊台(楼台・高台の名)を築き、諸大夫と酒を飲みました。
この時、褚師比(声子)が韈(靴下。足袋)を脱がずに席に登りました。褚師比は東周敬王四十一年(前479年)に宋に出奔しましたが、出公が即位してから帰国したようです。
当時の礼では、宴に参加する者は韈を脱ぐことになっていたようです。出公が怒ったため、褚師比が謝って言いました「臣には疾(病。ここでは足の皮膚病)があり、他の者とは異なります。もし(臣の足を)見たら、国君は吐いてしまうでしょう。だから脱げないのです。」
しかし出公はますます怒りました。諸大夫がとりなそうとしましたが、出公の怒りはおさまりません。褚師比はやむなく退出しましたが、出公は戟手(怒った様子。片手を腰に当てて片手で指さすこと。または人差指と中指で指さすこと)して「必ず汝の足を斬る」と言いました。退出する褚師比はそれをしっかり聞きました。
褚師比は司寇亥(司寇は氏。衛霊公の子孫)と同じ車に乗り、「今日の事は逃走できるだけでも幸いだ(このままでは殺されるだろう)」と言いました。
 
かつて出公が国に帰って復位したばかりの時(出公の復位は東周敬王四十三年・477)、南氏(子南氏。衛霊公の子孫)の邑を奪い、司寇亥の政権も奪いました。
また、出公は侍人を送り、公文要(懿子)の車を推し倒して池に落としたこともありました。公文要に対して怨みがあったようです。
 
以前、衛が夏丁(夏戊)の爵邑を削って家財を奪った時(東周敬王三十六年・前484年)、その家財は彌子瑕(彭封彌子)に与えられました。
彌子瑕は出公と酒を飲んだ機会に夏戊の娘を献上しました。出公はこの女性を気に入って夫人に立てます。
夫人の弟・期(夏戊の子)は大叔(太叔)疾の従孫甥(姉妹の孫)にあたります。幼い頃から出公の宮中で育ったため、出公は期を司徒に任命しました。
ところが夫人の寵愛が衰えたため、期も出公に疎まれて罪を得てしまいました。
 
出公は三匠(三種類の工匠)に休みなく働かせていました。
また、出公は優狡(優は俳優の意味。狡は名)と拳彌に盟を結ばせました。大夫の拳彌に身分が低い優と盟を結ばせたのは拳彌を辱めるためです。しかし出公はその後も拳彌を傍に置きました。
 
こうして褚師比、公孫彌牟(子之。文子。南氏)、公文要、司寇亥、司徒期が出公を憎むようになり、公宮内にいる三匠と拳彌の協力を得て謀反しました。皆、鋭利な武器や斤(斧。工匠の持ち物です)を持って公宮に向かいます。
まず拳彌を公宮に入らせ、太子・疾の宮から喚声を挙げて出公を攻撃しました。太子・疾は既に殺されましたが(東周敬王四十二年・前478年)、太子宮は残っていたようです。
大夫・鄄子士が出公に迎撃を請いましたが、拳彌がその手を引いて言いました「勇敢な子(あなた)は国君をどうするつもりですか(ここで戦ってあなたが死んだら国君を守る者がいなくなります)。先君(荘公)のことを知らないのですか(速く出奔しなかったため戎州で殺されました)。国君はどこに行っても欲を満足できるでしょう。そもそも、国君は以前も国外にいました。今回また出奔しても、二度と帰国できないと言えますか。今は抵抗するべきではありません。大衆の怒りには逆らえないものです。乱が収まったら、乱を起こした者を離間させることもできます。」
出公は拳彌を連れて衛を出ました(鄄子士が同行したかどうかはわかりません)
 
出公が蒲(晋附近)に向かおうとすると、拳彌が言いました「晋には信がないので、行くべきではありません。」
(斉・晋両国附近)に向かおうとすると、拳彌が言いました曰:「斉も晋も我々を争っています。いけません。」
(魯附近)に向かおうとすると、拳彌が言いました「魯は(小国なので)帰附するべきではありません。城鉏(衛の邑。宋との国境付近)に向かいましょう。そこなら越と結ぶことができます。越には優秀な国君がいます。」
 
夏五月庚辰(二十五日)、出公が城鉏に入りました。
城鉏に着く前に拳彌が欺いて言いました「衛の盗賊がいるかもしれないので、速やかに進むべきです。私が先に行きましょう。」
拳彌は出公が運んで来た宝物を車に乗せて衛都に還ってしまいました。
 
出公は士卒を分散し、祝史・揮に内応させて衛都を襲おうとしました。衛人は出公の帰国を畏れます。
それを知った公文要が公孫彌牟に会って祝史・揮を追放するように請いました。しかし彌牟は「彼は無罪だ」と言って拒否しました。
公文要が言いました「彼は専利を好み、法を犯している。もし国君が国に入ったら、真っ先に先導するだろう。もし彼を追放したら、必ず南門から出て国君の所に行く。越は最近、諸侯を得たばかりなので、必ず越に師を請うはずだ。」
祝史・揮が朝廷から家に帰った時、公文要が官吏を送って祝史・揮を家族と共に駆逐しました。
祝史・揮は衛都を出て城外で二晩過ごしました。城外に留まったのは様子を窺って機会があったら城内に戻ろうと思っていたからです。しかし誰も迎えに来ないため、五日後に外里(出公がいる場所)に入りました。
祝史・揮は出公に寵信され、越に兵を請う使者として派遣されました。
 
[] 六月、魯哀公が越から帰りました。
季孫肥(季康子)と仲孫彘(孟武伯)が五梧(魯の南境)で出迎えます。
哀公の僕(御者)を務める郭重が二子を見つけて言いました「二人は悪言(臣下として相応しくない発言)が多いので、主公は全て明らかにするべきです。」
 
哀公が五梧で宴を開きました。仲孫彘が哀公に酒を献じて祝言を述べます。
仲孫彘は郭重を嫌っていたため「なぜそのように肥えているのだ」と譴責しました。
すると季孫肥が言いました「罰として彘(仲孫彘)に酒を飲ませてください。魯国が仇讎と隣接しているため、臣(我々)は国君に従うことができず、遠出(越を訪問したこと)を免れました。(国君に従って労苦を経験してきた)(郭重)を肥えていると責めることができますか?」
哀公が季孫肥と仲孫彘を皮肉って言いました「食言が多いのだ。肥えないわけにはいかないだろう。」
「食言が多い(食言多)」は直訳すると「たくさんの言を食べている」になりますが、「食言」には「約束を破る」「信を失う」という意味があります。季孫氏と孟孫氏が公室を裏切って嘘をついていることを非難しています。
皆、酒を飲み続けましたが、楽しめませんでした。
この後、哀公と卿大夫の関係が悪化していきます。
 
[] この年、彗星が現れました。『史記・六国年表』に記述があります。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、晋の澮水が梁で絶えました。
また、丹水も三日間絶えて流れなくなりました。
 
[] 『史記・六国年表』によると、この年、楚の王子・英が秦に出奔しました。具体的にどのような事件があったのかはわかりません。
 
 
 
次回に続きます。