戦国時代4 東周元王(四) 衛出公のその後 前469年(1)

今回は東周元王七年です。二回に分けます。
 
元王七年
469年 壬申
 
[] 夏五月、魯の叔孫舒(文子。叔孫州仇の子)が兵を率いて越の大夫・皋如と舌庸(または「后庸」)および宋の司城・楽茷(子潞)と会しました。前年出奔した衛出公を帰国させることが目的です。
 
衛の公孫彌牟(文子)が出公を迎え入れようとしましたが、公文要(懿子)が反対して言いました「国君は愎(頑固で剛情)であり虐(暴虐)でもあるので、暫くしたら民を害すでしょう。そうなったら、民は子(あなた)と和睦できなくなります。」
 
越軍は衛郊外の守備を破って略奪を行いました。衛軍が城を出て戦いましたが敗北します。
衛出公(越軍に従っています)は褚師定子(褚師比の父)の墓を暴き、平荘(墓陵の名)の上で死体を焼きました。

公孫彌牟が王孫斉(昭子。大夫・王孫賈の子)を送って個人的に皋如と話をさせました。王孫斉が言いました「子(あなた)は衛を滅ぼすつもりですか?国君を帰国させたいだけですか?」
皋如が答えました「寡君の命は他にはない。衛君を入れるだけだ。」
王孫斉の報告を聞いた公孫彌牟が群臣を集めて言いました「国君は蛮夷を率いて国を討伐している。国は滅亡に瀕している。迎え入れよう。」
しかし群臣は「迎え入れるべきではない」と言って反対します。
彌牟が言いました「彌牟(私)が国を出れば益になるというのなら(彌牟は出公を出奔させた乱の首謀者の一人です。彌牟がいなくなれば出公が帰国できると考えたようです)、北門(越軍と出公は城南郊外にいます)から出ることを許してほしい。」
群臣は「国を出る必要はない」と言いました。
公孫彌牟は越に厚い賄賂を贈ってから、外城と内城の門を大きく開き、出公を迎え入れました。但し、城壁には兵を配置して厳重な警備の態勢を見せています。
結局、出公は恐れて入ることができず、越等の軍は賄賂を受け取ったため撤退を開始しました。
 
衛は悼公を立てました。悼公は荘公・蒯聵の庶弟にあたる公子・(または「虔」)です。公孫彌牟(南氏)が相になりました。
 
衛は城鉏を越に譲ることにしました。城鉏には出公が住んでいます。
出公が言いました「これは期(衛の司徒)が招いたことだ!」
出公は司徒・期に直接手を下すことができないため、夫人(出公の正妻。司徒・期の姉。出公に同行しています)に怨みがある宮人に命じて夫人を苦しめさせました。
 
後日、司徒・期が越を聘問しました。出公はそれを襲って幣物を奪います。
しかし司徒・期が越王・句践に報告したため、句践は幣物を取り戻すように命じました。司徒・期は徒衆を率いて取り戻します。
出公は怒って司徒・期の甥にあたる太子(出公と夫人の間にできた子)を殺しました。
 
出公が城鉏から使者を派遣し、子贛(子貢。孔子の弟子)に弓を贈って問いました「私は国に帰ることができるだろうか?」
子贛は稽首して弓を受け取りましたが、「臣には分かりません」と答えました。
しかし公人ではなく私人の立場で使者と話をしてこう言いました「昔、成公(衛成公)が陳に出奔した時は、甯武子と孫荘子が宛濮で盟を結んで国君を迎え入れました。献公(衛献公)が斉に出奔した時は、子鮮と子展が夷儀で盟を結んで国君を迎え入れました。今、衛君はまた出奔しましたが、国内に献公の時のような親族がいるとは聞いたことがなく、国外に成公の時のような卿がいるとも聞いたことがありません。だから賜(子貢の名)にはどうして帰国できるのか分からないのです。『詩(周頌・烈文)』にはこうあります。『人がいることほど強いことはない。人がいれば四方が帰順する(無競惟人,四方其順之)。』もしも人材がいれば、四方が主とします。国を得るのも難しくはありません。」
 
後に出公は越で死にました(東周貞定王四年・前465年参照)
 
以上は『春秋左氏伝(哀公二十六年)』の記述です。
史記・衛康叔世家』は異なる内容になっています。
出公は即位して十二年で亡命し、国外で四年間亡命生活を送ってから再び帰国しました。
出公後元年、亡命に従った者を賞しました。
即位して二十一年で死にました。
出公の季父(最年少の叔父)・黔(または「虔」)が出公の子を攻めて自立しました。これを悼公といいます。
悼公は在位五年で死に、子の敬公・弗が継ぎました。
 
これが『世家』の内容ですが、出公が死んだ年がよくわかりません。
史記』の「索隠」は出公の在位年数について「即位して十二年で亡命し、国外で四年間過ごしてから再び国に入り、その九年後に死んだ。在位年数は二十一(亡命期間は数えません)。最初に即位した時から死ぬまでの合計は二十五年で、越で死んだ(『史記』本文には越で死んだという記述がありません)」としています。
この場合、出公が最初に即位したのは東周敬王二十八年(492)なので、出公が死んだのは東周貞定王元年(前468年)の事となります(本年は東周元王七年・前469年なので、翌年に死んだことになります)
 
しかし『史記』の年表を見ると、出公の在位年数は復位後に二十一年続いたことになっています。『十二諸侯年表』と『六国年表』の記述を並べます。
 
敬王二十八年(492) 衛出公元年。
敬王三十九年(前481年) 出公十二年、出奔。
敬王四十三年(前477年) 出公復位。亡命生活四年。
元王元年(実際は敬王四十四年。前476年) 出公後元年。
定王(貞定王)十四年(前455年) 衛悼公元年。年を越えてから改元するので、出公の死は前年の定王十三年(前454年)・衛出公後二十一年。
定王十九年(前450年) 衛敬公元年。悼公の在位年数は五年。
資治通鑑前編』は『史記・六国年表』に従っています。
 
資治通鑑外紀』は『春秋左氏伝』と同じで、本年(東周元王七年・前469年)に衛悼公が即位したことになっています。悼公の在位年数は十九年としており、東周貞定王十八年(前451年)に死にます。翌年は『史記・六国年表』と同じで衛敬公元年です。
 
更に、『竹書紀年(古本)』を見ると悼公は晋出公十年(東周貞定王四年・前465年)に在位四年で死んだとあります。この場合は
東周元王七年(前469年。本年) 出公末年。
貞定王元年(前468年) 悼公元年。
貞定王四年(前465年) 悼公四年死去。
貞定王五年(前464年) 敬公元年。
となります。
 
どの説が正しいかははっきりしません。
 
 
 
次回に続きます。