戦国時代5 東周元王(五) 宋の内争 前469年(2)

今回は東周元王七年の続きです。
 
[] 『資治通鑑外紀』はここで子貢、曾参(三人とも孔子の弟子)に関して書いています。別の場所で紹介します。
 
[] 宋景公の故事を『水経注・睢水(巻二十四)』から紹介します。
宋景公が工人に弓を作らせました。弓は九年経ってやっと完成します。景公が「なぜこれほど時間がかかったのだ?」と問うと、工人はこう言いました「臣が主公に再び会うことはありません。臣の精はこの弓のために尽きました。」
工人は弓を献上して帰ってから三日後に死にました。
景公は虎圈の台に登り、弓を持って東に矢を射ました。矢は西霜(または「孟霜」)の山を越え、彭城の東でやっと止まり、石梁(呂梁。地名)に落ちましたが、残った勢いで矢羽まで地面に突き刺さりました。
 
以下、『春秋左氏伝』からです。
宋景公は子ができず、公孫周(宋元公の孫・子高)の子・得(または「特」。後の昭公とその弟・啓を公宮で養っていました。二人のどちらを後継者にするか決断ができません。
当時、皇緩が右師を、皇非我が大司馬を、皇懐(皇非我の従兄弟)が司徒を、霊不緩(公子・囲亀、字は子霊の後代)が左師を、楽茷(楽溷の子)が司城を、楽朱鉏(楽輓の子)が大司寇を勤めており、六卿三族(皇氏、霊氏、楽氏)が共同して政治を行っていました。
政令は大尹(国君の寵臣。または外戚。名は不明)を通じて景公に伝えることになっていましたが、大尹はしばしば景公に正確な報告をせず、自分の希望や欲求に基づいて君命と称した政令を発しました。そのため国人は大尹を憎むようになります。
司城・楽茷が大尹を除こうとしましたが、左師・霊不緩が言いました「そのままにして彼の罪を満たしてやろう。権勢が重いのに基礎(徳)がなかったら必ず倒れる。」
 
冬十月、景公が空沢(空桐、空桐沢)で遊びました。
辛巳(初四日)、景公が連中(館の名)で死にました。
 
大尹が空沢の甲士千人を指揮し、景公の死体を奉じて空桐(空沢)から国都の沃宮(宋の内宮)に入りました。そこで六卿を招き、偽ってこう言いました「下邑(郊外)で師(戦事)が起きたと聞きました。国君は六子(六卿)と共に計を謀ろうと思っています。」
六卿が到着すると、大尹は甲士に命じて六卿を脅迫し、「国君に疾病があります。二三子(諸卿)は盟を結んでください(国君の寿命は長くありません。後嗣がはっきりしていませんが、国君が死んでも乱を起こさないことを誓ってください)」と言いました。
六卿は大尹を信じて少寝(小寝。諸侯が朝廷から退いてから休憩する場所)の庭で盟を結び、「公室に不利となることはしない」と誓いました。
 
大尹は啓を後継者に立て、景公の霊柩を大宮(祖廟)に置きました。
三日後、国人が景公の死に気づきます。
司城・楽茷が国人に宣言しました「大尹は国君を惑わし、専権して利を貪ってきた。今、国君が疾(病)もないのに死に、死んでからそれを隠したのは、間違いなく大尹の罪だ。」
 
この頃、景公の養子・得が夢を見ました。後継者になった啓が頭を北にして寝ており、盧門(宋東城の南門)の外に出ています。頭を北にするのは死体を置く時の方向で、門の外にいるのは国を失うという意味です。得は烏(または「鳥」)になってその上に棲み、咮(嘴)は南門に、尾は桐門(北門)にありました。即位して南面するという意味です。
得が言いました「余の夢は美しい。必ず(国君に)立つことができる。」
 
大尹が知人と謀って言いました「私は盟に加わっていないから放逐されるだろう(盟を結んだのは六卿だけで、大尹は参加しなかったようです)。改めて盟を結ぼう。」
大尹は祝襄(祝は官名。襄は名)に載書(盟書)を作らせます。
この時、六卿は唐盂(恐らく宋都の近郊)におり、協力を誓って盟を結ぼうとしました。
そこに祝襄が載書を持って到着し、皇非我に報告しました。皇非我は楽茷、門尹・楽得、左師・霊不緩と謀って言いました「民は我々に附いている。大尹を追放しよう。」
皇非我等は国都に帰って家衆に武器を配り、国中を巡行して言いました「大尹は国君を惑わし、公室を虐げている。我々に協力する者は、国君を救う者だ。」
人々は「協力します」と言いました。
これに対して大尹も国内を巡行して言いました「戴氏と皇氏は公室に対して不利を行っている。私に協力する者は、富貴を手にすることができる。」
人々は「無別」と言いました。「無別」というのは「差がない。違いがない」という意味ですが、解釈が困難です。楊伯峻の『春秋左伝注』は、「大尹は他者が公室に対して不利な事を行っていると非難したが、大尹も公室に不利を行っているので変わりがない」という説を紹介しています。
 
戴氏と皇氏が宋公・啓を討とうとしましたが、楽得が言いました「いけません。彼は公(景公)を虐げて(国君の位を奪って)罪を得ました。我々まで公(国君。啓)を討ったら、我々の罪は更に大きくなります。」
戴氏と皇氏は国人の譴責が啓ではなく大尹に向かうようにしむけました。
大尹は啓を連れて楚に奔ります。
 
こうして得が即位しました。これを昭公といいます。司城・楽茷が上卿となり、「三族が共に政事を行い、互いに害すことはない」と誓いました
 
以上、『春秋左氏伝(哀公二十六年)』の記述を元にしました。
景公の在位年数は、『春秋左氏伝』によると四十八年です。
しかし『史記・宋微子世家』は在位年数を六十四年としています。また、『世家』には「宋公子・特(徳。得)が太子を殺して自立した。これを昭公という」とあり、これも『左伝』と異なります(東周貞定王十八年・451年に再述します)
『宋微子世家』の注(索隠)は『史記』の記述が『春秋左氏伝』と大きく異なるため、「太史公(司馬遷)が何を根拠にしたのかわからない」と書いています。あるいは、司馬遷が『史記』を書いた漢代には現在残されていない史料が存在していたのかもしれません。
 
[] この年、東周元王が死にました。在位年数は『春秋左氏伝』を元にすると七年、『史記』では八年になります(但し『春秋左氏伝』に元王という諡号は出てきません。元王元年・前475年参照)
史記・周本紀』は元王の死後、子の定王・介が即位したとしています。
 
しかし『世本(張澍稡集補注本等)』を見ると、「敬王が死んで貞王・介が立ち、貞王が死んで元王・赤が立つ」とあります。
 
『帝王世紀』は記述が混乱しており、三種類の説が并述されています。
一、「敬王が死んで子の貞定王が立ち、貞定王が死んで子の元王が立った。」
二、「貞定王の在位年数は十年で、元年は癸亥(前478年。東周敬王四十二年のはずです)、崩年は壬申(前469年。『史記』の元王が死んだ年と一致します)。」
三、「元王元年は癸酉(前468年)。十一年癸未、三晋が智伯を滅ぼす(癸未は前458年。智伯が滅ぶのは前453年なので合いません)。二十八年庚子(前441年)に崩じ、三子が争って立つ。貞王という。」
一と二は貞定王の後、元王が即位したとしています。しかし三を見ると元王の後に貞王が即位しています。貞定王(貞王)が先か元王が先かはっきりしません。
また、三は『史記』の定王(貞定王)元年を元王元年としており、その後に貞王が即位したとしています。この説を採ると、敬王の死後から元王の即位までの間が空白になってしまいます。
史記』では定王(貞定王)の死後、三子が争って考王が即位したとしています(貞定王二十八年・前441年参照)
 
資治通鑑外紀』と『資治通鑑前編』は元王が死んで子の貞定王・介が継いだとしています。
私の通史も『史記』にならって元王を先に置きました。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)にはこの年、「斉人と鄭人が衛を攻めた」とあります。しかし事件の詳細は分かりません。
また、『古本竹書紀年』には「晋の荀瑤(智瑤)が宅陽(一名を「北宅」といいます)に築城した」と書かれています。
 
 
 
次回から東周貞定王の時代です。