戦国時代6 東周貞定王(一) 魯哀公の出奔 前468~465年

今回から東周貞定王の時代です。
 
貞定王
史記・周本紀』は元王の死後、子の定王・介が即位したとしています。敬王→元王→定王という順番です。
しかし『世本(張澍稡集補注本等)』を見ると、「敬王が死んで貞王・介が立ち、貞王が死んで元王・赤が立つ」とあります。
資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』『十八史略』は元王が死んで子の貞定王・介が継いだとしており、『竹書紀年』(今本)も元王の後に貞定王を置いています(『帝王世紀』には三つの説がありますが、元王末年に紹介したのでここでは省略します)
周王室は春秋時代に既に定王が存在するので、『史記』の「定王」というのは恐らく誤りです。
この通史では『資治通鑑外紀』等にならって、「貞定王」と書きます。名は『史記』の「介」が正しいのか、『世本』の「赤」が正しいのか、判断できません。
 
 
貞定王元年
468年 癸酉
 
[] 春、越王・句践が舌庸を魯に送って聘問し、邾田(邾の領地)に関する取り決めを行いました。魯が邾を侵して土地を奪ったため、越が覇者として調停したようです。
駘上(地名。狐駘)が境界に定められました。
 
二月、越と魯が平陽(西平陽)で盟を結びました。三桓が魯哀公に従って参加します。
季孫肥(康子)は魯の国君と三卿が夷蛮の大夫にすぎない舌庸と盟を結ぶことを恥じと思い、弁才がある子贛(子貢)を思い出して「もし彼がここにいたら、我々がこうなることはなかった」と言いました。子貢は呉との結盟を断った実績があるからです(東周敬王三十七年・前483年参照)
仲孫彘(孟武伯)が言いました「その通りだ。なぜ彼を招かない?」
季孫肥が言いました「元々彼を招くはずだった。」
叔孫舒(文子)が言いました「後日、また彼を想えばいい。」
叔孫舒の発言は、子貢を用いることができないのに難に臨むと子貢を想う季孫肥に対する皮肉です。
 
[] 夏四月己亥(二十五日)、季孫肥が死にました。
弔問に来た哀公は葬礼の等級を通常よりも低くさせました。哀公が三桓を嫌っていたからです。
 
[] 晋の荀瑤(智伯)が鄭を攻撃して桐丘に駐軍しました。
鄭の駟弘(子般。駟の子)が斉に援軍を求めました。斉は出兵の準備を始めます。
 
斉の陳恒(田恒。陳成子)が孤子(戦死者の子)を集めて三日以内に入朝させることにしました。陳恒は一乗の車と二頭の馬(二頭の馬は士の制度です)を準備し、策書(国君の命令書)を五つの袋に入れると、顔涿聚(顔庚。東周元王四年・前472年参照)の子・晋を招いて言いました「隰(犁丘)の役で汝の父が死んだが、国が多難だったため汝を撫恤できていなかった。今、君命によって汝にこの邑(策書に書かれた城邑)を与えることになった。朝服を着て、車に乗って朝見せよ。前労(父の功労)を無駄にしてはならない。」
 
斉が鄭を援けるため、留舒(柳舒)に至りました。既に穀(斉地)から七里離れた場所まで行軍しましたが、穀の人々は兵が通ったことに気がつきませんでした。斉軍の動きが速く、乱れがなかったためです。
斉軍が濮水に至りましたが、雨が降っているため川を渡れません。駟弘に同行している国参(子思。子産の子)が言いました「大国(晋)が敝邑の軒下にいるので急を告げました。ここで師を進めることができないようなら、恐らく間に合いません。」
陳恒は雨衣を作り、戈を杖にして、山の坂道を登ります。馬が進まなくなったら鞭を打ちながら引っぱりました。
 
斉軍の様子を聞いた荀瑤は兵を還し、「わしは鄭討伐を卜っただけだ。斉との戦いは卜っていない」と言いました。
 
荀瑤が使者を送って陳恒にこう伝えました「大夫・陳子は陳の出身だ。陳の祀が絶えたのは鄭の罪ではないか(実際に陳を滅ぼしたのは楚なので、鄭は関係ありません。鄭を援けた陳恒を非難するためにこじつけています)。だから寡君は瑤(私)に陳滅亡の実情を探らせ、大夫(陳恒)が陳国を哀れんでいるかを確認させたのだ(陳恒のために陳の仇である鄭を攻撃した、という意味です)。もし大夫が本(陳)の滅亡を自分の利とするのなら(陳を滅ぼした鄭を助けて自分の利をするのなら)、瑤に害が与えられることはない(陳恒を恐れる必要はない)。」
陳恒は怒ってこう言いました「他者を侮り虐げるような者は、誰も良い終わりを得ていない。知伯は長くない。」
 
荀寅(中行文子。斉に出奔しています)が陳恒に言いました「晋師から来た者が寅(私)にこう報告しました。『晋は軽車千乗で斉師の営門に迫ろうとしている。斉軍を殲滅できる。』」
陳恒が言いました「寡君は恒()にこう命じた『少数の敵を追撃するな。多数の敵を恐れるな。』たとえ敵が千乗を越えたとしても、それを避けることはない。子(汝)の命(言)を寡君に伝えておこう。」
荀寅が言いました「私は自分がなぜ亡命することになったのかをやっと理解できた。君子の謀には始(開始)・衷(中。経過)・終(結果)があり、全てを考えてから進言するものだ。私はこの三つを考える前に進言したのだから、難に遭うのも当然だ。」
以上は『春秋左氏伝(哀公二十七年)』の記述です。『史記・六国年表』はこれを東周貞定王五年(前464年)の事としています。
 
[] 魯哀公は三桓を脅威と感じ、諸侯の力を借りて除こうとしました。
これに対して三桓も哀公が自分の力を把握できず乱を起こそうとしていることを嫌っています。君臣の対立はますます大きくなりました。
 
ある日、哀公が陵阪で遊び、孟氏の衢(大通り)で仲孫彘(孟武伯)に遭遇しました。哀公が問いました「余は善い終わりを迎えることができるか?」
暗に三桓が自分を倒そうとしているのではないかと聞いています。
仲孫彘は「臣には分かりません」と答えました。
哀公が三回尋ねても、仲孫彘はまともに答えません。
哀公は越に魯を討たせて三桓を除く決意を固めました。
 
秋八月甲戌朔、哀公が公孫有陘(有山)の家に入りました。そこから邾に出奔し、越に入ります。
魯の国人は公孫有山(有陘)の家を攻めて公孫有山を捕まえました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公二十七年)』の記述です。哀公がその後どうなったかは書かれていません。東周敬王四十一年(前479年)に子貢が「哀公は国内で死ぬことはできない」と予言したことがあったので、『左伝』の作者は哀公が国外で死んだと考えているはずです。
 
しかし『史記・魯周公世家』には「八月、哀公が陘氏(有山氏。氏は家の意味)に入った。三桓が哀公を攻めたため、哀公は衛に奔り、鄒(邾)に入ってから越に移った。国人が哀公を迎え入れたが、哀公は有山氏の家で死んだ。子の寧が即位した。これを悼公という」とあります。『左伝』とは少し異なります。
史記・六国年表』を見ると、哀公の死は翌年の東周貞定王二年(前467年)に書かれています。
 
魯では哀公の子・寧が即位しました。これを悼公といいます。
史記・魯周公世家』は当時の魯を「悼公の時代は三桓の勢力が強く、魯公室は小侯と同等になり、三桓の家よりも劣っていた」と書いています。
 
[] 『竹書紀年』(今本)によると、この年、於越(越。句践)が瑯琊に遷都しました(東周貞定王五年・464年に再述します)
『呉越春秋・勾践伐呉外伝(第十)』には瑯琊に遷都してから周囲七里にわたる観台を築いて東海を望んだとあります。
越王・句践の全盛期です。
 
 
 
翌年は東周貞定王二年です。
 
貞定王二年
467年 甲戍
 
[] 『史記・六国年表』によると、この年、秦の庶長(官爵名)が魏城を落としました。
また、彗星が現れました。
 
[] 『史記・六国年表』は本年に魯哀公が死んだとしています。その場合は在位年数二十八年になります(魯哀公の死に関しては前年に述べました)
 
 
 
翌年は東周貞定王三年です。
 
貞定王三年
466年 乙亥
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年、晋の空桐(地名)地震があり、七日間にわたって揺れが続きました。
台舎が全て崩壊し、多くの人が犠牲になりました。
 
 
 
翌年は東周貞定王四年です。
 
貞定王四年
465年 丙子
 
[] この年、燕献公が在位二十八年で死に、孝公が立ちました。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年十一月、於越子(越子、子)・句践が死にました。句践は菼執ともいいます(菼執は名のようです)
鹿郢が跡を継ぎました。鹿郢は『史記・越王句践世家』では「鼫與」と書かれています。
また、『春秋左氏伝(哀公二十四年)』には越王・句践の太子として「適郢」の名が見られます。恐らく鹿郢と同一人物です(東周元王五年・前471年参照)
 
尚、句践が死んだ年を『史記・越王句践世家』は明確にしていません。
資治通鑑前編』は『竹書紀年』と同じく本年に死んだと書いていますが、『資治通鑑外紀』は翌年に在位年数三十三年で死んだとしています。
 
[] 『竹書紀年』(古本)によると、衛悼公が越で死にました。
原文は「(衛悼公)四年,卒于越」です。『春秋左氏伝(哀公二十六年)』の記述では、衛悼公は東周元王七年(前469年)に即位しました。翌年に改元したとしたら、東周貞定王元年(前468年)が衛悼公元年なので、悼公四年は本年(貞定王四年・前465年)になります。
 
しかし『史記』等では異なる記述になっています。既に紹介したので再述は避けます(東周元王七年・前469年参照)
 
本年に衛悼公が死んだとしたら、翌年は敬公元年になります。敬公は悼公の子で、名を弗(または「費」)といいます。
 
[] 『史記・鄭世家』によると、本年(鄭声公三十六年)、晋の知伯が鄭を攻めて九邑を取りました。
しかし『春秋左氏伝』『六国年表』は翌年に晋と鄭の戦いを書いているので、『鄭世家』は一年ずれているのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。