戦国時代 趙簡子・趙襄子に関する故事(1)

資治通鑑外紀』が趙簡子(趙鞅)と趙襄子(趙無恤)に関する故事を紹介しています。
 
まずは『呂氏春秋・恃君覧・驕恣(巻第二十)』からです。『説苑・君道(巻一)』にも同じ話があります。
趙簡子が鸞徼(『説苑・君道(巻一)』では「鸞激」。『資治通鑑外紀』では「●激」。●はくさかんむりの下に「欒」)についてこう言いました「わしはかつて声色(音楽や女色)を好んだ。すると鸞徼は声色をもたらした。わしはかつて宮室・台榭(高台)の建築を好んだ。すると鸞徼は建造を行った。わしはかつて良馬を愛し、よくそれを御した。すると鸞徼は良馬を集めてきた。今、わしは士を愛して六年になる。しかし鸞徼は一人の士も進めようとしない。わしの過ちを助長させて善を損なわせている。」
趙簡子は鸞徼を黄河に沈めました。
 
次は『説苑・君道(巻一)』からです。
ある人が趙簡子に言いました「あなたはなぜ改めないのですか?」
簡子は「わかった(諾)」と答えました。
簡子の左右の者が問いました「まだ誤りがないのに何を改めるのですか?」
簡子が言いました「私は同意したが、既に過ちがはっきりしているからではない。私はこれから諫言してくる者を求めるつもりだ。今、私を諫める者を退けたら諫者が来なくなり、後日、私は本当に過ちを犯すことになる。」
 
『説苑・善説(巻十一)』からです。
趙簡子が成搏(『資治通鑑外紀』では「成傅」)に問いました「羊殖(『資治通鑑外紀』では「楊実」)という者が賢大夫だと聞いた。彼の品行は如何だ?」
成搏が答えました「臣にはわかりません。」
簡子が問いました「子(汝)と彼は友人として親しい関係にあるのではないのか。子が知らないのは何故だ?」
成搏が言いました「彼はよく変わるからです。十五歳の頃、彼は廉潔で自分の過ちを隠すことがありませんでした。二十歳の頃は、仁を持ち義を好みました。三十歳の頃、晋の中軍尉になり、勇敢でしかも仁を愛しました。五十歳になると辺城の将に任命され、遠く離れた辺境の者も彼に親しむようになりました。今、臣は五年も彼に会っていません。恐らくまた変わっているはずなので、知らないと答えたのです。」
簡子が言いました「本当に賢大夫だ。変わる度に向上している(毎変益上)。」
 
『説苑・尊賢(巻八)』からです。
(姓か名かわかりません。『資治通鑑外紀』を見ると、上述の楊実、羊殖のようです)が趙簡主(簡子)に会いに行って言いました「臣は郷に住んでいましたが三回追放され、国君に仕えましたが五回罷免されました。今回、あなたが士を愛していると聞いて謁見に来ました。」
それを聞いた簡主は食事中でしたが、すぐに箸を置いて感嘆し、跪いたまま歩いて迎えに行きました。左右の者が言いました「郷に住んで三回も追放されたのは、大衆に許容されなかったからです。国君に仕えて五回も罷免されたのは、上に対して不忠だったからです。過ちの多い者に会いに行くのですか。」
簡主が言いました「子(汝)には分からないことだ。美女は丑婦の仇となる。盛徳の士は乱世においては疎遠にされる。正直な行動は邪枉に憎まれるようになる。」
簡主は楊に会うと相の位を授けました。その結果、国が大いに治まりました。
 
史記・趙世家』からです。
趙簡子には周舍という直諫を好む臣がいました。しかしその周舍が死んでしまったため、簡子は朝議を聞くたびに不快な面持ちをするようになりました。
大夫達が簡子に謝罪すると、簡子はこう言いました「大夫に罪はない。千羊の皮は一狐の腋(腋の下からとれる毛皮)に及ばないという。諸大夫は朝議において『唯唯(はいはい)』とうなずくだけなので、周舍の鄂鄂(うるさい様子)とした諫言を聞くことができない。これを憂いているのだ。」
簡子は趙邑の人々を帰心させ、晋人を懐柔することができました。
 
 
資治通鑑』は趙簡子が後継者を選んだ時の故事を書いています。
趙簡子の子は長子を伯魯、幼子を無恤といいました。簡子が後嗣を選ぼうとしましたが、誰を立てるべきか迷いました。そこで訓戒の書を述べた簡(竹簡)を準備し、二子に授けて言いました「しっかり学んで記憶せよ。」
三年後、簡子が訓戒の辞について質問すると、伯魯は答えられませんでした。簡を出すように命じても、既になくしてしまったため出せません。
簡子が改めて無恤に問うと、無恤は内容を習熟しており、滞ることなく諳んじてみせます。また、簡を求めると袖の中から出して簡子に渡しました。
簡子は無恤の賢才を認めて後嗣にしました。
 
趙簡子が無恤を後継者に選んだいきさつについて、『史記・趙世家』は別の話を載せています。次回紹介します。
 
 
『国語・晋語九』に趙簡子と襄子(無恤)の話があります。
趙簡子はかつて尹鐸に命じて晋陽(趙氏の邑)を治めさせました。
尹鐸が問いました「晋陽を繭絲(賦税を集める地。繭の糸がなくなるまで取り尽くすように民から税を取るという意味)としますか?保鄣(防衛の地。「鄣」は「障」と同じ)としますか?」
簡子が言いました「保鄣にせよ。」
尹鐸は晋陽の戸数を減らしました。戸数を減らすというのは、登記上の戸数を減らして税収を少なくするという意味だと思います。あるいは、一戸にかかる税の数を減らすという意味かもしれません。
後に簡子が襄子を戒めて言いました「今後、晋国に難があったら、尹鐸を少(若者。または身分が低い者)と思うな。晋陽を遠いと思うな。必ず晋陽に帰れ。」
 
尹鐸の姓に関して『資治通鑑』の胡三省注が解説しています。『姓譜』によると、「尹」は少昊(伝説時代の帝王)の子で、尹城に封じられたため、子孫が尹を氏にしました。尹鐸は趙簡子の家臣です。
 

次回に続きます。