戦国時代 趙簡子・趙襄子に関する故事(3)

前回は『史記・趙世家』から趙簡子(趙鞅)と趙襄子(無恤)について書きました。
 
代を占領した出来事は『呂氏春秋・孝行覧』にもあります。『史記』とは少し異なります。
かつて趙簡子が病にかかった時、太子(無恤)を招いて言いました「私が死んで埋葬が終わったら、衰(喪服)を着たまま夏屋山を登って遠くを眺めてみよ。」
太子は恭しく遺言を受け入れました。
簡子が死んで埋葬が終わると、趙襄子(無恤)は衰を着たまま大臣を集めてこう言いました「夏屋を登って眺望したい。」
大臣が諫めて言いました「夏屋に登って眺望するのは外遊になります。衰のまま外游するべきではありません。」
しかし襄子は「これは先君の命である。寡人がそれを廃すわけにはいかない」と言って諫言を聞きませんでした。群臣はやむなく同意します。
襄子が夏屋に登り、代国の俗(風俗。習俗)を眺めました。代の人々はとても楽しそうに生活しています。
襄子が言いました「先君は山に登ることでこれを私に教えようとしたのだ。」
襄子は帰ってから代を奪う策を練ります。
まず代国との関係を改善しました。代君は好色だったため、襄子は姉を代君に嫁がせることを乞います。代君が同意したため姉が代に行きました。
襄子はその後もますます代君に親しく接しました。
代の地は馬が豊富でした。そこで代君は良馬を襄子に贈ることにしました。襄子を信じている代君は良馬を全て襄子に譲ります。
 
ある日、襄子が代君を酒宴に誘いました。数百人の舞者の羽(舞踊の道具)の中に兵器を隠してあります。宴席には大きな金斗(酒器)も準備されました。
代君が宴に参加して酒が回った頃、突然、金斗を逆さに持って代君の頭を撃ちました(『呂氏春秋』は誰が代君を殺したかを明記していません。趙襄子が自ら殺したようにも読めます)。舞者も武器を持って代君の従者を皆殺しにします。
襄子は代君の車で妻(襄子の姉)を迎えに行きました。
しかし代君の死を知った妻は笄を磨いて自分を刺し、息絶えました。
 

『列女伝・節義伝(巻之五)』には代趙夫人(襄子の姉)の言葉が紹介されています。
代君を殺した襄子が迎えを送って来ました。それを聞いた夫人はこう言いました「私は先君の命を受けて代の王に仕え
(『呂氏春秋』と異なります)、十余年が経ちました。代には大故(大きな事件)がないのに、主君はそれを滅ぼしてしまいました。代が亡んだ今、私はどこに帰ればいいのでしょう。婦人の義には、二夫は存在しないといいます。私が二夫に仕えることはできません。私を迎えてどうするつもりでしょう。弟のために夫を軽んじたら非義になります。夫のために弟を怨んだら非仁になります。私には怨むことができません。しかし帰る場所もありません。」

夫人は天に向かって泣き、靡笄の地で自殺しました。
 
 
趙簡子が死んですぐに中牟が叛したようです。『淮南子・道応訓』からです。
趙簡子が死んで葬儀を行う前に、中牟が叛して斉に帰順しました。
葬儀の五日後、襄子が兵を興して中牟を包囲します。しかし戦う前に中牟の城壁数十丈が自然に崩れました。
それを知った襄子は撤兵を命じました。
軍吏が諫めて言いました「主君は中牟の罪を討伐に来ました。城が自ら崩れたのは天が我々を助けたからです。なぜ去るのですか。」
襄子が言いました「私は叔向のこういう言葉を聞いたことがある『君子は利によって人に乗じず、険によって人に迫らない(利のために人に乗じることなく、危難を利用して人を圧迫することもない。「君子不乗人于利,不迫人于険」)。』彼等に城を修築させろ。直ってから攻撃を開始する。」
中牟の人々は襄子の義を聞いて投降しました。