戦国時代8 東周貞定王(三) 晋出公 前458~457年

今回は東周貞定王十一年と十二年です。
 
貞定王十一年
458年 癸未
 
[] この年、晋出公が斉に出奔しました。
晋出公十七年、知伯(智瑤)が趙、韓、魏の三家と共にかつて范氏と中行氏が領有していた地を分割して自分の邑にしました。
それを怒った出公は斉と魯に四卿(知・趙・韓・魏の四氏)の専横を訴え、討伐の兵を請います。
ところが討伐を恐れた四卿が逆に出公を攻撃しました。
出公は斉に出奔しましたが、道中で死んでしまいます。
 
かつて、晋昭公(出公の父は定公。定公の父は頃公。頃公の父が昭公)の少子・雍は戴子と号しました。戴子は忌を産み、忌は知伯と親交がありました。しかし忌は早死にします。出公出奔後、知伯は晋公族も併合して支配下に入れようと思っていましたが、まだその時ではないと考えなおし、忌の子・驕(昭公の曾孫)を国君に選びました。これを哀公といいます。
当時、晋国の政治は全て知伯によって決定され、晋哀公には発言権がありませんでした。
知伯は范氏と中行氏の故地も領有し、晋国内で最強の勢力を擁するようになります。
 
以上は『史記・晋世家』の内容です。
晋出公が死んだ年ははっきりしません。『史記・晋世家』は出公十七年に書いているので、本年(東周貞定王十一年・前458年)になります(出公元年は東周元王二年・前474年です)
しかし『史記・六国年表』を見ると二年後の東周貞定王十三年(前456年)が哀公元年となっているので、出公が死んだのは東周貞定王十二年(前457年)のはずです。この場合は出公十八年になります。
史記・晋世家』の注(集解)は出公の在位年数を「十八年あるいは二十年」と解説しています。
 
また、『史記・晋世家』は出公以降の国君を「出公・鑿(または「錯」)十七年→哀公・驕十八年→幽公・柳」としていますが、『史記・趙世家』には「知伯は昭公の曾孫・驕を立てた。これを晋懿公という」とあります。
史記・六国年表』には注(正義)があり、「出公・錯十八年、哀公・忌二年、懿公・驕十七年」という説ものせています。
 
『世本(秦嘉謨輯補本)』では、出公・鑿の次に懿公を置き、懿公は昭公の曾孫としています(『趙世家』と同じです)。また、昭公の子は桓子・雝(『晋世家』の「雍」)といい、雝の子は忌といい、忌が懿公・驕の父にあたるともあります。載子(『史記・晋世家』では「戴子」)は桓子・雝の号です。幽公・柳は懿公・驕の子になります。
 
『今本竹書紀年』は「東周貞定王十七年(前452年)に晋出公が死んだ」とし、『古本竹書紀年』も「出公二十三年(東周貞定王十七年)に出公が楚に出奔した」としています。
また、『竹書紀年』(今本・古本)では、出公の跡を継ぐのは昭公の孫・敬公となっており、敬公の後は幽公が即位します。哀公や懿公は存在しません。
 
資治通鑑外紀』は『史記・晋世家』にならい、「出公・錯十七年→哀公・驕十八年→幽公・柳」としています。
資治通鑑前編』は出公が在位十七年(本年)で出奔し、翌年、斉で死んだとしています。出公を継いだのは昭公の曾孫・驕で、諡号は哀公なので、『史記・晋世家』と同じです(東周貞定王十七年・前452年に再述します)
 
尚、『史記・趙世家』は出公の出奔を趙襄子(趙毋卹。毋恤)が趙氏を継いで四年目の事としていますが、『六国年表』では趙襄子元年(東周貞定王十二年・前457年)が晋出公の末年になっています(東周貞定王十五年・前454年参照)
 
[] 『資治通鑑外紀』が『戦国策・宋衛策(巻三十二)』から知伯と衛の故事を紹介しています。具体的にいつ起きた事かはわかりません。
知伯が衛を攻撃しようとし、太子・顔(知伯の太子)を衛に亡命させました。様子を探るためです。
衛の大夫・南文子が衛君(出公、悼公、敬公のいずれかと思われます)に言いました「太子・顔は君子であり、寵愛を受けています。大罪がなければ出奔するはずがありません。何か理由があるはずです。」
衛君は国境に人を送って警備の兵にこう伝えました「車が五乗を越える者を受け入れてはならない。」
太子・顔の受け入れを拒否するという意味です。
知伯はそれを聞いて、太子・顔を戻らせました。
 
知伯が衛君に野馬四頭と白璧一つを贈りました。衛を油断させるためです。
衛君はこれを受け取って喜び、群臣も祝賀しました。しかし南文子だけは憂色を浮かべました。
衛君が問いました「国中が喜んでいるのに、子はなぜ憂色を浮かべているのだ?」
文子が言いました「功績がないのに賞され、力を労してもいないのに礼遇されたのです。慎重になるべきです。野馬四頭と白璧一つは小国が大国に贈る礼です。しかしそれが大国から贈られてきました。国君はよく考えるべきです。」
衛君はこの言葉を国境に伝えて警備を強化しました。
衛に兵を進めていた知伯は、国境の警備が厳しいのを見て「衛には賢人がいる。わしの謀が知られてしまった」と言い、兵を還しました。
 
呂氏春秋・慎大覧・権勲』には智伯が夙繇を攻めた時のことが書かれています。これもいつの出来事かはわかりません。
中山に夙繇(『戦国策・西周策』では「由」。または「仇首」とも書きます)という国がありました。智伯は夙繇を攻略したいと思いましたが、道がありません。
そこで大鐘を鋳て夙繇に贈ることにしました。大鐘は横に並べた二台の車に乗せられます。
夙繇の君は大鐘を受け入れるため、崖を削り谷を埋めて道を造ることにしました。すると赤章蔓枝が諫めて言いました「『詩(詳細不明)』にはこうあります『準則があって始めて国を安定できる(唯則定国)。』我が国がなぜ智伯から礼物を得られるというのですか?智伯という人物は貪婪で信がありません。我が国を攻撃したいのに道がないから、大鐘を造り、車を並べて主公に送ってきたのです。主公が崖を削り谷を埋めて鐘を迎え入れたら、その後ろに続く師(兵)を招き入れることになります。」
夙繇の国君が諫言を聞かないため再び諫めると、国君はこう言いました「大国が我が国に誼を通じようとしているのに、子(汝)が逆らうのは不祥だ。それ以上言うな。」
赤章蔓枝は「人臣でありながら不忠不貞であったら罪だ。しかし忠貞であっても用いられなかったら、遠くに去ってもいいはずだ」と言うと、馬車の轂を削って去りました。轂は車輪の中央にある支柱が突き出た部分です。これを削ったというのは、険しい山道を奔ったことを表します。
赤章蔓枝は衛(『資治通鑑外紀』では斉)に亡命しました。その七日後に夙繇が亡びました。
 
 
翌年は東周貞定王十二年です。
 
貞定王十二年
457年 甲申
 
[] 蔡声侯が在位十五年で死に、子の元侯が立ちました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、黄河の水が三日間にわたって赤くなりました。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、晋の荀瑤が中山国を攻めて窮魚の丘を取りました。
中山は春秋時代の鮮虞です。
 
[] 『史記・六国年表』によると、秦厲共公が軍を率いて緜諸西戎と戦いました。
 
[] 『史記・六国年表』によると、前年に晋の趙簡子(趙鞅)が死にました。本年を趙襄子(趙無恤)元年としています。
しかし『春秋左氏伝』では、東周元王元年475年)には既に趙無恤の代になっています。
また、『六国年表』ではこの年に趙が代王を誘い出して殺し、伯魯の子・周を代成君に封じたとしています。代を滅ぼした事件は別の場所で書いたので詳述は避けます。
 
 
 
次回に続きます。