戦国時代9 東周貞定王(四) 晋陽包囲 前456~454年

今回は東周貞定王十三年から十五年です。
 
貞定王十三年
456年 乙酉
 
[] 斉平公が在位二十五年で死に、子の積(または「就匝」)が立ちました。これを宣公といいます。
 
[] 『資治通鑑前編』はこの年に斉の陳成子が死に、子の盤が立ったとしています(東周貞定王十六年・前453年に再述します)
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年(秦厲共公二十一年)、秦が頻陽に県を置きました。
 
[] 『史記・秦本紀』によると、晋が秦の武成を取りました。
 
『竹書紀年』にも晋と秦の戦いに関する記述がありますが、『史記』とは若干異なります。
『今本竹書紀年』は「晋の韓龐が秦の武城を取った」とし、『古本竹書紀年』は「晋出公十九年(本年)、晋の韓龍が盧氏城を取った」としています。
尚、『史記』の年表および世家では、晋出公は既に死んでいます。
 
[] 『資治通鑑外紀』が知伯(智瑤)の故事を紹介しています。出典は『国語・晋語九』です。
智襄子(智瑤)が壮麗な室(屋敷)を建てました。
夕方、智伯の家臣・士茁が来ると、智伯が言いました「我が室は美しいであろう。」
士茁が言いました「美しいことは美しいのですが、臣は恐れも抱いています。」
智伯が「何を恐れているのだ?」と問うと、士茁が言いました「臣は筆を持って主に仕えています。志(記録。古書)にはこのような言葉があります『高山は峻原(高く険しい地)で草木が生えず、松柏が成長する地は(いつも陰になっているため)土が肥えない(高山峻原,不生草木。松柏之地,其土不肥)。』今は土木(建築)が勝っていますが(立派な建物が建てられていますが)、臣はこれが人を不安定にさせるのではないかと心配です(豪華な屋敷と人心を懐柔させることが両立できないのではないかと心配しています)。」
三年後、智氏は滅亡します。
 
[] 当時、晋では知伯(智伯)が権勢を握り、驕慢になっていました。それが原因で、晋で内争が始まります。以下、『資治通鑑』と『戦国策・趙策一』からです。
知伯が韓氏に領地を譲るように要求しました。韓康子(韓虔)は拒否しようとしましたが、段規が諫めて言いました「いけません。知伯は利を好み、しかも剛腹です。土地を求めて来たのに拒否したら、必ず韓に対して兵を加えます。逆に韓が土地を与えれば彼はそれが当然なことだと思い、他国(他の卿)にも土地を要求するはずです。その時、他国が要求を拒否したら、必ず兵を向けます。その間、韓は患難から逃れて事態の変化を待つことができます。」
康子は「善し」と言って万家(万戸)の邑を知伯に譲ることを約束しました。
喜んだ知伯は魏氏にも土地を要求します。魏宣子(魏駒。魏桓子)が拒否しようとすると、趙葭が諫めて言いました「彼は韓にも土地を求め、韓は既に譲りました。魏にも要求したのに魏が拒否したら、魏は内部の強盛を過信して外に知伯の怒りを買うことになります。知氏は魏に対して兵を用いるでしょう。土地を譲るべきです。」
魏宣子も「わかった(諾)」と言って万家の邑を知伯に譲ることにしました。
ますます喜んだ知伯は趙にも人を送り、蔡(『資治通鑑』胡三省注を見ると、蔡は晋から遠いので、「藺」の誤りではないかと注釈されています)と皋狼の地を要求しました。しかし趙襄子(趙無恤)は拒否します。
知伯は韓、魏と結んで趙を攻撃しました。
 
『戦国策・魏策一』にはこの時の魏の様子が詳しく書かれています。上述の『趙策一』とは若干異なります。
知伯が魏桓子(魏宣子)に土地を要求した時、魏桓子は断ろうとしました。
任章が魏桓子に問いました「なぜ与えないのですか?」
桓子が言いました「理由なく土地を要求してきたのだ。与えるつもりはない。」
任章が言いました「理由もなく土地を要求したら、隣国を必ず恐れさせます。欲を重ねて限りがなければ、天下を必ず恐れさせます。主公が地を与えれば知伯は必ず驕り、驕れば必ず敵を軽視します。恐れた隣国同士は親交を深めることができます。親交を深めた兵で敵を軽視する国に対すれば、知氏の命も長くありません。『周書(詳細不明)』にこういう言葉があります『相手を破りたければ、まず相手を援けよ。相手から奪いたければ、まず相手に与えよ(将欲敗之,必姑輔之。将欲取之,必姑与之)。』主公は知氏に与えて驕慢にさせるべきです。主公はなぜ天下と共に知氏を図る機会を棄てて、我が国一国を知氏の質(標的)にするのですか。」
桓子は「善し」と言って万家の邑を譲りました。
喜んだ知伯は趙にも蔡と皋梁の地を要求しました。しかし趙が拒否したため、晋陽を包囲しました。
 
資治通鑑』の胡三省注に任章と任氏に関する注釈があります。胡三省注は初めて登場する姓氏に注釈をつけています。
任章は魏桓子の相です。『姓譜』によると、黄帝には二十五子がおり、そのうち十二人が徳によって姓を与えられました。第一の姓を任氏といいます。これとは別に、任は風姓の国で、太昊の子孫ともいわれています。済水の祭祀を主宰していました。
 
資治通鑑』と『趙策一』に戻ります。
知氏が晋陽に兵を向ける前に、趙襄子が張孟談(張談。趙襄子の宰)に言いました「知伯という人物は、他者に対して表面上は親しそうにしていても、心中では疎んじているものだ。彼は三回使者を送り、韓と魏は要求に応じたが寡人だけが要求を拒否した。兵が寡人に向けられるのは間違いない。今後、どこに住むべきだろうか?」
張孟談が言いました「かつて董閼安于(董閼于。董安于)は簡主(趙簡子。趙鞅)の才臣として生涯にわたって晋陽を治めました。また、尹沢(尹鐸)もその統治にならい、政教(政道・教化)はまだ残っています。主公は晋陽に居を定めるべきです。」
趙襄子は「わかった()」と言い、延陵王(詳細不明。『韓非子』では延陵生。後述)に車騎を率いて晋陽に先行させました。襄子も後に続きます。
 
晋陽に到着した襄子が城郭や府庫(兵器や物資の倉庫)、倉廩(食糧の倉庫)を巡視しました。
襄子が張孟談に言いました「城郭は修築され、府庫も倉廩も満たされている。しかし矢が足りない。どうすればいいだろう?」
張孟談が言いました「董子が晋陽を治めていた時、公宮の垣(壁)は全て狄・蒿・苫・楚(狄は「翟」と同じで雉の羽。蒿・苫・楚は植物)で作られ、その高さは一丈余もあると聞いています。主公はそれを集めて使うべきです。」
襄子は公宮の壁を壊して矢を作りました。箘簬(矢を作る良質の竹)よりも丈夫な矢ができます。
襄子が言いました「矢は足りたが、銅が少ない。どうするべきだ?」
張孟談が言いました「董子が晋陽を治めていた時、公宮の室(部屋)は全て煉銅の柱を使ったと聞いています。それらを集めて用いれば銅に余りができます。」
襄子は「善し」と言って銅を集め、防戦の準備を整えました。
 
三国(知氏・韓氏・魏氏)の兵が晋陽城を攻撃しましたが、三カ月経っても攻略できませんでした。
知氏は兵を退いて城を包囲し、晋水(または「汾水」。東周貞定王十六年・前453年参照)を決壊させて水攻めを始めました。
 
三氏が晋陽を包囲した時の事は『韓非子・十過』等にも書かれていますが、上述の内容と若干異なります。別の場所で紹介します。
 
 
翌年は東周貞定王十四年です。
 
貞定王十四年
455年 丙戍
 
[] この年、鄭人が哀公を弑殺しました。『史記・鄭世家』に記述がありますが、詳細は書かれていません。
哀公の在位年数は八年です。
鄭人は声公(哀公の父)の弟・丑を立てました。これを共公といいます。
 
 
 
翌年は東周貞定王十五年です。
 
貞定王十五年
454年 丁亥
 
[] 『資治通鑑前編』は本年に晋の荀瑤(智瑤)と韓・魏が晋陽を包囲したとしています。
 
[] 『史記・趙世家』はこの年(趙襄子四年)に晋の知伯と趙、韓、魏が范氏と中行氏の故地を分割したため、晋出公が怒って四卿を攻撃しようとし、失敗して出奔した事件を書いています。
また、『六国年表』には「趙氏と知伯が范氏と中行氏の地を分けた」とあります。
しかし『資治通鑑』等の記述によると、この頃、趙氏は晋陽で知氏等の包囲を受けているはずです。また、『六国年表』では既に晋哀公の時代になっています。恐らく『趙世家』と『六国年表』の記述に誤りがあります(東周貞定王十一年・前458年参照)
 
 
 
次回に続きます。