戦国時代 晋陽包囲

晋の知氏(智氏)、韓氏、魏氏が趙氏の晋陽を包囲しました。本編では『資治通鑑』と『戦国策』の記述を中心に書きました。
晋陽包囲に関して『韓非子』等にも記述があるので、ここで紹介します。

まずは『韓非子・十過』からです。
張孟談が趙襄子(趙無恤)に晋陽へ行くように勧めました。趙襄子は延陵生を招き、車騎を率いて先に晋陽に行かせます。襄子も後に続きました。
晋陽に着いた襄子は城郭や五官(各官)の藏を巡察しました。ところが、城郭は完成しておらず、倉には粟(食糧)の蓄えがなく、府には銭の蓄えがなく、庫には甲兵(武器)がなく、邑には守具(防備)がありませんでした。
襄子が恐れて張孟談に言いました「寡人は城郭と五官の藏を巡察したが、全て整っていなかった。どうやって敵に対すればいいのだ。」
張孟談が言いました「聖人の治とは民に藏して(物資を蓄えさせて)府庫に藏すことはなく(藏于民,不藏于府庫)、教化を修めて城郭を治める(修築する)ことはない(務修其教,不治城郭)といいます。主公は民に令を出し、三年分の食糧を残させて、それ以上の粟を倉に入れさせ、三年分の物資を残させて、それ以上の銭(財)を府に入れさせるべきです。また、余剰の人員(遺有奇人者)に城郭を修築させるべきです。」
その日の夕方に襄子が命令を出すと、翌日には倉に粟が満たされ、府に銭が満たされ、庫に甲兵が満たされました。
五日後には城郭が完成し、守備が整えられます。
襄子が張孟談を招いて問いました「城郭が完成し、守備は既に整った。銭粟も足りており、甲兵も余っている。しかし箭(矢)が足りない。どうすればいいか?」
張孟談が言いました「董子が晋陽を治めていた時、公宮の垣(壁)は全て狄・蒿・楛(苫)・楚(狄は雉の羽。蒿・苫・楚は植物)で作られ、楛の高さは一丈もあると聞いています。主公はそれを集めて使うべきです。」
襄子は公宮の壁を壊して矢を作りました。(簬。矢を作る竹)よりも丈夫な矢ができます。
襄子が問いました「箭は足りたが金(金属)がない。どうするべきだ?」
張孟談が言いました「董子が晋陽を治めていた時、公宮や令舍(官舎)の堂は全て煉銅の柱が使われたと聞いています。それらを集めて用いれば、銅に余りができます。」
襄子は銅を集め、号令を定めて防戦の準備を整えました。
 
 
次は『国語・晋語九』からです。趙襄子が晋陽に移る前にさかのぼります。
知氏の攻撃を警戒して張談(張孟談)が趙襄子に言いました「先主の重器(財物)は国家を難から救うためにあります。宝を惜しまず諸侯に贈って援けを求めるべきです。」
襄子が言いました「使者とするべき者がいない。」
張談が言いました「地(人名。襄子の臣)なら問題ありません。」
襄子が言いました「わしには不幸にも疾(欠点)があり、先子(先主)に及ばない。徳がないのに賄賂で救いを求めるのか。そもそも地はわしの欲を満足させただけだ(諫言したことがない)。わしの疾を助長することでわしの禄を得てきた。彼と共に倒れるつもりはない(彼を頼りにするつもりはない)。」
襄子が「わしはどこに行くべきだ?」と言うと、従者が答えました「長子(地名)は近く、城壁も厚くて完成しています。」
襄子が言いました「民の力を費やして完成させた邑で、民に命をかけて守らせようというのか。誰もわしに協力しないだろう。」
従者が言いました「邯鄲の倉庫は満たされています。」
襄子が言いました「それは民の膏沢(脂)を搾取して満たしたのだ。その上また民に命を捨てさせるというのか。誰もわしに協力しないだろう。晋陽に行こう。あそこは先主(簡子)が託した場所であり、尹鐸が寛大な政治を行った。必ず民が和すはずだ。」
趙襄子は晋陽に入りました。
やがて晋師(晋軍。三氏の兵)が水攻めを開始し、晋陽城内の竃が沈んで鼃(蛙)が生まれるほどでしたが、民は叛意を持ちませんでした。
 
 
原過という趙氏の家臣が晋陽に向かう途中で神仙に出会ったといわれています。『史記・趙世家』からです。
趙鞅が晋陽に向かった時、原過が従っていましたが、途中で遅れてしまいました。
原過が王沢に来た時、三人の不思議な人物に会いました。腰帯より上は姿が見えますが、下は見えません。
三人が原過に二節の竹を与えました。竹の中は貫通していません。
三人が言いました「我々のためにこれを趙毋卹(趙無恤)に届けてくれ。」
原過は晋陽に到着してからこの事を趙襄子に話しました。
趙襄子は三日間の斎戒後、自ら竹を割りました。中には朱書(赤い文字の書)があり、こう書かれていました「趙毋卹よ、余は霍泰山・山陽侯の天使である。三月丙戌、余が汝の反撃によって知氏を滅ぼさせよう。汝がわしのために百邑を建てたら(原文「立我百邑」。恐らく、百の邑人が守る廟を建てること)、余は汝に林胡の地を与えよう。後世には伉王(強健な王)が現れることになる。赤黒(肌の色)、龍面(龍のような顔)、鳥噣(鳥のように尖った口)、鬢麋髭𩑺(眉や髭が立派なこと)、大膺大胸(胸が大きくたくましいこと)、脩下而馮(背が高いこと)、左袵(襟の左が上になること。少数民族の服装)、界乗(騎馬。当時、中原には騎馬の習慣がありません)の王だ。河宗黄河中流一帯)を全て領有して休溷諸貉(戎狄の地)に至り、南は晋の別邑(韓、魏の邑)を攻め、北は黒姑(戎国)を滅ぼすであろう。」
趙襄子は再拝して三神の令(朱書)を受け取りました。