戦国時代10 東周貞定王(五) 晋陽の戦い 前453年(1)

今回は東周貞定王十六年です。三回に分けます。
 
貞定王十六年
453年 戊子
 
[] 晋では智氏、韓氏、魏氏による晋陽包囲が続いています。『資治通鑑』『趙世家』『戦国策・趙策一』からです。
三家が国人を率いて晋陽を囲み、水攻めを行いました。
史記・趙世家』には「汾水の水を引いた」とありますが、『戦国策・趙策一』は「晋水」としています。『資治通鑑』には川の名が書かれていません。
「晋水」は晋の国名の元になっており、晋の首都・絳付近を流れていたといわれています。絳と晋陽は離れすぎています。「汾水」は晋陽の東を流れる川なので、こちらの方が正しいようです。
 
水攻めのため、城は三版を残して水没しました。竃が沈み、鼃(蛙)が生まれるほどです。しかし民は叛意を持ちませんでした。
「三版」に関して、『資治通鑑』胡三省注は「二尺で一版。三版は六尺」としていますが、『史記・趙世家』の注(正義)には「八尺で一版」とあります。
 
当時の晋陽内部の様子を『史記・趙世家』からです。
国が晋を攻めて一年以上が経ちました。三国が汾水の水を内に流したため、内は三版を残して水没します。人々はを高い所に掛けて炊事するようになりました。
やがて食糧もなくなり飢餓に襲われました。
群臣に外(二心)が生まれ始めて礼が疎かになりましたが、高共(または「高」)だけは礼を失うことがありませんでした
 
以下、『資治通鑑』からです。
智伯(知伯。智瑤)が水没した城の周りを巡視しました。魏桓子(魏駒)が御者を、韓康子(韓虔)が驂乗を勤めます。兵車では尊貴な者が左に乗って弓矢を持ち、御者が中央で馬を操り、力がある者が右で矛を持ちました。智瑤が左、魏駒が中央、韓虔が右になります。三人乗りの馬車に同乗する者を驂乗、四人乗りの馬車なら駟乗といいます。
智伯が言いました「今回、水によって人の国を亡ぼすことができると知った。」
それを聞いた魏桓子は肘で韓康子をつつき、韓康子は足で韓桓子の足を踏んで合図しました。汾水は魏都・安邑を水攻めにでき、絳水は韓都・平陽を水攻めにできるからです。
 
後に絺疵が智伯に言いました「韓と魏は必ず反します。」
智伯が問いました「子()は何故それが分かるのだ?」
絺疵が言いました「人事(人の常)によって知ることができます。我々は韓と魏の兵を集めて趙を攻めていますが、趙が亡んだら、難は必ず韓と魏に及びます。趙に勝ったらその地を三分すると約束しましたが、城は三版を残して水没し、人馬が困窮して投降まで日がないのに、二子には喜志(喜ぶ気持ち)がなく、憂色を表しています。反しないはずがありません。」
翌日、智伯が絺疵の言を二子に伝えました。すると二子はこう言いました「彼は趙氏のために遊説し、主(智氏)に我々二家を疑わせて趙氏に対する攻撃を緩めさせようとしているのです。朝夕には趙氏の田(土地)を得ることができるのに、敢えてその利を棄てて危難で成功するはずがない事を欲するとお思いですか。」
二子が退出してから絺疵が智伯に会って言いました「主はなぜ臣の言を二子に伝えたのですか?」
智伯が「子は何故それを知っているのだ?」と問うと、絺疵が言いました「彼等は臣に会うと凝視してから早足で去りました。臣が二子の実情を知っていると気がついたのです。」
しかし智伯は態度を改めませんでした。
絺疵は難から逃れるため、使者として斉に行くことを願い出ました。
 
胡三省注に絺姓について書かれています。絺姓は周の蘇忿生の支子(嫡長子以外の子)の子孫です。絺という地に封じられたため絺氏を名乗りました。
 
『戦国策・趙策一』では「絺疵」は「郗疵」と書かれています。以下、『戦国策・趙策一』からこの時の様子です。
郗疵が知伯に韓・魏二子の異心を報告しました。
翌日、知伯がそれを韓・魏の君に話し、こう言いました「郗疵は二君が反すと言っている。」
韓・魏の君が言いました「趙に勝ったらその地を三分することになっており、城の攻略は目前に迫っています。三家(恐らく「二家」の誤り)が愚かだとしても、目前の美利を棄て、信盟の約に背き、危難で成功できない事を行ったら、その結果は明らかです。これは疵が趙のために立てた計でしょう。あなたに二主の心を疑わせ、趙への攻撃を緩めさせるつもりです。あなたが讒臣の言を聞いて二主との交わりを遠ざけるのだとしたら、あなたに代わって残念に思います。」
二君が退出すると郗疵が知伯に会ってこう言いました「主公はなぜ疵の言を韓・魏の君に告げたのですか?」
知伯が問いました「子は何故それを知っているのだ?」
郗疵が言いました「韓・魏の君は臣に会うと凝視してから早足で去りました。」
郗疵は知伯が諫言を聞かないと知り、使者として斉に行くことを願い出ました。知伯はそれに同意して斉に送ります。
後に韓と魏が知伯に背きました。
 
資治通鑑』に戻ります。
趙襄子(趙無恤)が秘かに張孟談(『史記』では「張孟同」と書かれています。『史記』の作者・司馬遷の父の名が「談」だったため、父の名を避けて「同」に置き換えられました)を城外に出して韓・魏の二子と会見させました。
張孟談が二子に言いました「唇が亡んだら歯が寒くなる(脣亡則歯寒)といいます。今回、智伯は韓・魏を率いて趙を攻めていますが、趙が亡んだら次は韓・魏の番です。」
二子が言いました「我々も心中ではそれを知っている。しかし事を行う前に謀が漏れてすぐに禍を招くことを恐れているのだ。」
張孟談が言いました「謀は二主の口から出て臣一人の耳に入るだけです。心配はいりません。」
そこで二子は張孟談と決行の期日を約束しました。
 
資治通鑑』胡三省注はここで張氏の起源について『姓譜』等から三つの説を紹介しています。
『姓譜』によると、張氏の先祖は軒轅黄帝の第五子・揮です。揮は弦を作り、弦を張って網を作りました。代々その職を掌ったため、後に張を氏としました。
『風俗伝』によると、張・王・李・趙は黄帝から下賜された姓です。また、晋には解張という人物がおり、字を張侯といいました。これが晋国の張氏の始めです。
唐代の『姓氏譜』によると、張氏は姫姓から生まれました。黄帝の子である少昊・青陽氏の第五子に揮という者がおり、弓矢を作り始めました。そのため、子孫が張という氏を下賜されました。周宣王の卿士に張仲がおり、その後裔が晋に仕えて大夫になりました。
 
資治通鑑』本文に戻ります。
夜、趙襄子が人を送って隄(堤防)を守る官吏を殺しました。溜められていた水が智伯の陣に流されます。
智伯軍は水難から逃げようとして混乱に陥りました。
そこを韓・魏両軍が挟撃し、趙襄子も兵を率いて正面から攻撃しました。
智伯軍が大敗し、智伯は殺され、智氏の族が滅びます。
これ以前に智氏とは別族になっていた輔果(智果)だけは助かりました(東周元王四年・前472年参照)
 
史記・趙世家』は知氏(智氏)が滅ぼされた日を「三月丙戌」としています。三人の神仙の予言があたったことになります。
 
晋陽の戦いは『戦国策・趙策一』に詳しい記述があります。別の場所で紹介します。
 
 
次回に続きます。