戦国時代12 東周貞定王(七) 刺客豫譲 前453年(3)

今回で東周貞定王十六年が終わります。
 
[] 知伯を滅ぼした趙襄子(趙無恤)が豫譲という刺客に襲われました。『戦国策・趙策一』と『資治通鑑』の内容を合わせて紹介します。
豫譲は晋の畢陽の孫です。かつて范氏と中行氏に仕えていましたが、厚遇されなかったため、二氏から去って知伯に仕えました。知伯は豫譲を寵用します。
三晋が知氏の地を分割した後、趙襄子が最も知伯を怨んでいたため、頭蓋骨に漆を塗って飲器(酒器)にしました。
豫譲は山中に逃げてこう言いました「士は己を知る者のために死に、女は己を悦ぶ者のために容貌を正す(士為知己者死,女為悦己者容)という。私は知氏の仇に報いなければならない。・
豫譲は姓名を変えて刑人(罪人。奴隷)となり、匕首(短剣)を隠して襄子の宮に入りました。厠の掃除(原文「塗厠」)を担当して襄子暗殺の機会を待ちます。
ある日、襄子が厠に入ろうとしましたが、心動(動悸)を感じました。そこで厠を調べて掃除をしている者を捕えると、豫譲は武器を持って「知伯の仇に報いるつもりだ!」と言いました。
襄子の近臣が殺すように勧めましたが襄子はこう言いました「智伯は既に死に、後嗣がいるわけでもない。それなのにこの者は仇に報いようとしている。真の義士だ。私が注意して彼を避ければいいだけのことだ。」
豫譲は釈放されました。
 
しかし豫譲はあきらめません。全身に漆を塗って癩病を装い、髭や眉を剃って市で食物を乞う生活を送りました。妻が会っても豫譲だと気がつかないほどでしたが、声を聞いてこう言いました「状貌は私の夫に全く似ていないのに、声はとても似ています。これはどういうことでしょう。」
豫譲は炭を呑んで声を嗄れさせました。
路上で会った友人が豫譲に気がつき、泣いて言いました「子(あなた)の道は困難で、しかも功を成すのが難しい。子を志士というのならその通りだが、知士だというのなら間違いだ。子の才をもって趙孟(襄子。孟は趙氏の長の意味です)に仕えれば必ず近くに置かれるだろう。そうなれば子が欲することを実行するのも難しくはない。なぜ自分をこれほど苦しめるのだ。このようにして仇に報いるのは、苦難が多すぎるのではないか。」
豫譲が笑って言いました「子の意見は、古くからの知人(知氏)のために新しい知人(趙氏)を裏切り、旧君(知氏)のために新君(趙氏)を襲うことであり、それに従ったら君臣の義を大いに乱すことになる。私がこうしているのは君臣の義を明らかにしたいからだ。委質(忠誠を誓うこと)して臣になりながら殺す機会を求めたら二心を持つことになる。私がやろうとしているのは極めて困難なことだ。しかし敢えてこうしているのは、後世、天下で人の臣になりながら二心を抱く者を辱めるためだ。」
 
後日、襄子が外出しました。豫譲は橋の下に伏せています。襄子が橋まで来た時、馬が突然驚きました。襄子は「豫譲がいる」と言って橋の周りを探させます。
襄子の家臣が豫譲を捕えました。
襄子が豫譲を譴責して言いました「子は范氏と中行氏にも仕えていたではないか。知伯が范氏と中行氏を亡ぼしたのに子はその仇に報いず、逆に知伯に委質した。その知伯も既に死んだが、なぜわしに対する仇だけがこれほどまで深いのだ。」
豫譲が言いました「臣は范氏と中行氏に仕えましたが、范氏と中行氏は衆人として臣を遇しました。だから臣も衆人として報いたのです。知伯は国士として臣を遇しました。だから臣も国士として報いるのです。」
襄子が嘆息して言いました「豫子よ、豫子は知伯のために行動し、既にその名を成すことができた。寡人も一度は子を放ったのだから充分だろう。自分でも考えてみよ。寡人が子を再び放つことはできない。」
襄子は兵に豫譲を包囲させました。
豫譲が言いました「明主は人の義を覆い隠すことがなく、忠臣は名を成すためなら命を惜しまないといいます。君(あなた)は以前、寛容によって臣を放ちました。天下は君の賢を称えています。よって今日、臣が誅に伏すのは当然のことです。しかし君の衣服をいただいて剣で撃つことをお許しください。それができれば死んでも悔いはありません。」
襄子は豫譲の義に感心し、家臣に命じて衣服を持って来させました。豫譲は剣を抜いて三回跳ねてから剣で服を突き、天に向かって「やっと知伯のために仇を討つことができた!」と言いました。
言い終わるとすぐ剣に伏せて自尽します。
趙国の士は忠心に殉じた豫譲の話を聞いて皆涙を流しました。
 
史記』の『刺客列伝(巻八十六)』にも豫譲の故事が書かれています。内容は『戦国策』とほぼ同じです。
 
[] 『国語・晋語九』にこの頃の趙襄子に関する記述があります(『国語』は晋陽の戦いの前に書いていますが、『資治通鑑外紀』は戦いの後で紹介しています)
趙襄子が新稚穆子(晋の大夫・新稚狗。新稚が氏)に狄を討伐させ、左人と中人(どちらも地名)の二邑を取りました。
遽人(駅卒)が報告に来た時、襄子は食事をしようとしていました。戦勝の報告を聞いた襄子は恐れを顔にします。
侍者が問いました「狗(新稚狗)が大事を成したのに主公に喜びの色がないのは何故ですか?」
襄子が言いました「徳が純(専一)ではないのに福と禄が共にくることを幸(幸運)という。幸は本当の福ではない(徳がなければ本当の福は訪れない)。徳がなければ雍(福禄がもたらす和と楽)を得ることできず、雍は幸によってもたらされるものではない。だから恐れたのだ。」
 
淮南子・道応訓』にも趙襄子が翟(狄)に勝った時の話があります。但し、孔子が登場します。孔子は既に死んでいるはずなので時代が合いません。『資治通鑑外紀』は「孔子」を「君子」に置き変えています。
趙襄子が翟を攻めて尤人と終人(どちらも地名。恐らく「左人」と「中人」)を取りました。
使者が報告に来た時、襄子は食事をしようとしていましたが、報告を聞いて憂いを顔に浮かべます。左右の近臣が問いました「一朝にして二城を降しました。これは喜ぶべきことなのに、主公は憂色を浮かべています。何故ですか?」
襄子が言いました「江河(長江と黄河の大水(洪水)も三日あれば収まり、暴風雨が起きたとしてもそれは日が登るまでのわずかな時間のことだ(一時の勢いはすぐに収束する)。今、趙氏の徳行はまだ積まれていない。それなのに一朝で二城を取ってしまった。これでは滅亡もすぐに訪れるだろう。」
これを聞いた孔子(または「君子」)が言いました「趙氏は興隆するだろう。」
戦いに勝っても憂いることができる者は興隆し、逆に勝利を喜ぶ者は滅亡を速めるものです。勝利を得ることが難しいのではありません。本当に難しいのは持続することです。賢主はこの道理を知っているから勝利を維持し、福を後世に及ぼすことができるのです。
 
『新序・刺奢』から趙襄子の故事です。
趙襄子が酒を飲み、五日五夜に渡って杯を置きませでした。
趙襄子が侍者に言いました「わしは本物の邦士(国士。国の傑出した士)だ。五日五夜に渡って酒を飲んでも全く疲労を感じない。」
すると優莫(俳優・芸人。莫は名)が言いました「主公は頑張ってください。紂にまだ二日及びません。紂は七日七夜酒を飲みました。主公は今日でまだ五日目です。」
襄子が恐れて問いました「わしは亡ぶのか?」
優莫が言いました「亡びません。」
襄子が問いました「紂に二日及ばないだけだ。それでも滅亡を待たないというのか?」
優莫が言いました「桀・紂が亡んだのは、湯(成湯)・武(武王)に遭遇したからです。今の天下は全て桀であり、主公は紂です。桀と紂が世に並び立っているのですから、互いに亡ぼすことはありません。しかし危険であることは確かです。」
 
[] 斉の出来事を『史記・田敬仲完世家』からです。
これ以前に田桓(田常。成子)が死に、子の盤(または「」「班」)が継ぎました。これを襄子といいます(『資治通鑑前編』は東周貞定王十三年・前456年に書いていますが、『史記・田敬仲完世家』にはいつの事か明記されていません)
田襄子は斉宣公の相になりました。
三晋が知伯を殺したのは斉宣公三年に当たります。田襄子は三晋に使者を送って修好しました。
また、田襄子は兄弟や宗族を全て斉の都邑大夫に任命しました。斉国のほぼ全土を田氏が領有するようになります。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、この年(晋出公二十二年)、晋の扈で黄河が絶えました。
『今本竹書紀年』は十年前に書いています(東周貞定王六年・463年参照)
 
 
 
次回に続きます。