戦国時代14 東周貞定王(九) 貞定王の死と内乱 前448~441年

今回は東周貞定王二十一年から二十八年です。貞定王の時代が終わります。
 
貞定王二十一年
448年 癸巳
 
[] 『史記・六国年表』によると、晋の大夫・智寛(智瑤の一族)が邑人を率いて秦に奔りました。
 
 
 
翌年は東周貞定王二十二年です。
 
貞定王二十二年
447年 甲午
 
[] 楚恵王が蔡を滅ぼしました。蔡侯・斉の在位年数は四年です。
蔡侯・斉は亡命し、蔡の祭祀が途絶えました。
 
 
 
翌年の東周貞定王二十三年は特に記述するべきことがありません。
 
貞定王二十三年
446年 乙未
 
 
 
翌年は東周貞定王二十四年です。
 
貞定王二十四年
445年 丙申
 
[] 楚が杞国を滅ぼしました。楚恵王四十四年の事です。
史記・陳杞世家』には、杞簡公が即位して一年で楚に滅ぼされたとありますが、簡公は東周貞定王二十年(前449年)に即位しており、翌年が簡公元年になるので、杞が滅ぼされた年は簡公四年のはずです。
 
杞は夏王朝の後裔の国ですが、小国だったため史書には杞国で起きた出来事がほとんど残されていません。
 
[] 『史記・楚世家』によると、楚と秦が講和しました。
 
[] 『史記・楚世家』に「当時(楚恵王四十四年)、越が既に呉を滅ぼしたが、江淮(長江と淮水の北)を治めることができなかったため、楚が東侵して領地を泗上(泗水沿岸)まで拡げた」とあります。
但し、この内容は東周元王四年(前472年)にも書きました。
 
資治通鑑外紀』はこの時に楚が莒国を滅ぼしたとしています。『外紀』によると莒共公から四世後の出来事です。『世本』にも莒国は共公の四世後に楚によって滅ぼされたとあります。
 
史記』の『楚世家』と『六国年表』では、楚が莒を滅ぼすのは楚簡王元年(東周考王十年・前431年)の事としています(再述します)
 
 
 
翌年は東周貞定王二十五年です。
 
貞定王二十五年
444年 丁酉
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年(秦厲共公三十三年)、秦が義渠を攻めてその王を捕えました。
 
資治通鑑外紀』と『資治通鑑前編』はここで「韓と魏が共に伊・洛・陰戎を攻めて滅ぼし、戎族で残った者は皆逃走して西の汧隴(汧山と隴山の間)に遷った。この後、中国(中原)には戎寇がなくなり、義渠種だけが残った」と書いています。この通史では東周貞定王八年(前461年)に述べました。
 
 
 
翌年は東周貞定王二十六年です。
 
貞定王二十六年
443年 戊戍
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年、日食があり、昼なのに暗くなって星が見えたといいます。
 
[] 秦厲共公が在位三十四年で死に、子の躁公が立ちました。
 
 
 
翌年の東周貞定王二十七年は特に記述することがありません。
 
貞定王二十七年
442年 己亥
 
 
 
翌年は東周貞定王二十八年です。
 
貞定王二十八年
441年 庚子
 
[] 周貞定王が死にました。
周で内争が起きます。
まず長子・去疾が立ちました。これを哀王といいます。
しかし哀王は在位三カ月で弟の叔に襲われました。叔が哀王を殺して自立します。これを思王といいます。
ところが思王も在位五ヶ月で少弟・嵬に襲われました。嵬が思王を殺して自立します。これを考王といいます。
三王とも定王の子です。
考王には揭という弟もいて、後に西周桓公とよばれるようになります(東周考王十五年・前426年)。しかし『史記・周本紀』では考王・嵬が「少弟(末弟)」と書かれているので、哀王・思王・考王は貞定王の正妻の子で、揭は考王の異母弟かもしれません。
 
以上は『史記・周本紀』を元にしました。『帝王世紀』では王の名と諡号が少し異なります。以下、『帝王世紀』からです。
まず哀王が即位しましたが、三カ月で弟の叔に殺されました。叔が即位します。これを思王といいます。
しかし思王も即位してから五カ月で弟の隗に殺されました。隗が即位します。これを考哲王(または考悊王)といいます。
 
『帝王世紀』は異なる説も載せており、「元王は在位二十八年で死に、三子が争って貞王が即位した」とも書かれています。これに関しては東周元王七年(前469年)にも述べました。
 
十八史略』は思王の名を「叔帯」としています。
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年(秦躁公二年)、秦の南鄭が叛しました。
史記』の注(正義)には、「南鄭の地は春秋から戦国時代にかけて楚に属していた」とあります。
秦は東周貞定王十八年451年)に南鄭に城を築きました。楚から南鄭を奪ったようです。
この年に叛した南鄭が楚に帰順したかどうかははっきりしません。秦は東周安王十五年(前387年)に蜀から南鄭を奪うので、南鄭は蜀に属したのかもしれません。
あるいは、『史記正義』の記述が誤りで、元々楚ではなく蜀に属しており、東周貞定王十八年に秦が奪ったものの、この年にまた蜀に帰順したのかもしれません(秦と楚の間には蜀が存在するので、秦の国境に蜀を跳び越えて楚の領土があるのは不自然に思えます)
 
 
 
次回から東周考王の時代です。