戦国時代15 東周考王(一) 晋公室の衰弱 前440~432年

今回から東周考王の時代です。
在位年数は十五年にわたりますが、記述する内容が少ないので二回で終わります。
 
考王
貞定王(定王。貞王)の死後、三子が争い、少弟・嵬が思王を殺して自立しました。これを考王といいます。
『帝王世紀』では考哲王(または考悊王)としています。
 
 
考王元年
440年 辛丑
 
[] 『今本竹書紀年』は考王元年を晋敬公十八年としていますが、十二年の誤りです。
但し、『史記・晋世家』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前篇』には敬公という国君がいないことは既に書きました(東周貞定王十一年・前458年および貞定王十七年・前452年参照)
 
資治通鑑外紀』によると、この年、晋哀公が死に、子の幽公・栁(または「柳」)が立ちました。『資治通鑑前編』は翌年の事としています。
史記・晋世家』には哀公の在位年数が十八年とあります。しかし『史記・六国年表』では、晋哀公の元年は東周定王(貞定王)十三年(前456年)、末年は東周考王三年(前438年)なので、在位年数は十九年になります。
 
 
 
翌年は東周考王二年です。
 
考王二年
439年 壬寅
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年、黄河の水が晋の龍門で三日間にわたって赤くなりました。
 
 
 
翌年は東周考王三年です。
 
考王三年
438年 癸卯
 
[] 『史記・六国年表』ではこの年に晋哀公が死に、子の幽公・栁が即位します。翌年が幽公元年になります。
 
史記・晋世家』は当時の状況をこう書いています「幽公の時代、晋公室は衰退し、逆に韓・趙・魏の君を朝見するようになった。晋公室は絳と曲沃だけを領有し、その他の地は全て三晋に支配されていた。」
 
 
 
東周考王四年と考王五年は特に記述することがありません。
 
考王四年
437年 甲辰
 
 
考王五年
436年乙巳
 
 
 
翌年は東周考王六年です。
 
考王六年
435年 丙午
 
[] 『史記・六国年表』によると、秦で六月に雪が降りました。
また、日食と月食がありました。
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年、晋で大風が吹き、垣(恐らく公宮の壁)が崩れました。
 
 
 
翌年は東周考王七年です。
 
考王七年
434年 丁未
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)には晋敬公十八年に魏文侯が立ったとあります。敬公十八年は東周考王七年(本年)にあたります。
但し、晋敬公十八年は「六年」の誤りという説もあります。その場合、魏文侯が即位したのは東周貞定王二十三年(前446年)になります。
 
魏文侯は魏桓子(魏駒)の孫または子で、魏斯(または「魏都」)といいます。『史記・魏世家』には「桓子の孫を文侯・都という」とあり、『世本(秦嘉謨輯補本)』には「桓子が文侯・斯を生む」とあります。
*『史記・晋世家』に敬公という国君がいないことは既に書きました(東周貞定王十一年・前458年および貞定王十七年・前452年参照)
 
史記』の『晋世家』は晋幽公十五年(東周威烈王三年・前423年)に魏文侯が立ったとしており、『魏世家』では魏文侯元年を秦霊公元年(東周威烈王二年・前424年)としています。
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、燕成公が在位十六年で死に、湣公(閔公)が即位しました。『史記』の注(索隠)には「成公の名は載」とあります。
 
 
 
翌年は東周考王八年です。
 
考王八年
433年 戊申
 
[] 『資治通鑑前編』によると、この年、彗星が現れました。
 
 
 
翌年は東周考王九年です。
 
考王九年
432年 己酉
 
[] 衛敬公が在位十九年で死に、子の昭公・糾が立ちました。
史記・衛康叔世家』によると、当時、三晋がますます強盛にり、衛は小侯のような立場でこれに属しました。『史記』の注(正義)は趙に属したとしています。
 
[] 楚恵王が在位五十七年で死に、子の簡王・仲(または「中」)が継ぎました。
 
[] 『資治通鑑外紀』には「晋丹沁水出相撃」と書かれています。丹水と沁水という二つの川が溢れてぶつかり合ったようです。
『竹書紀年』(今本・古本)は東周威烈王五年(前421年)に同じような記述をしています。
 
 
 
次回に続きます。