戦国時代16 東周考王(二) 西周国建国 前431~426年

今回で東周考王の時代が終わります。
 
考王十年
431年 庚戍
 
[] 『史記・楚世家』によると、この年、楚が北伐して莒を滅ぼしました。
『世本』にも莒国は共公の四世後に楚によって滅ぼされたとあります(これに関しては東周貞定王二十四年・前445年にも書きました)
漢書・地理志下』でも城陽国の箇所で顔師古が「莒は三十世で楚に滅ぼされた」と注釈しています。
 
しかし、『墨子非攻中』には「莒は斉と越の間で滅ぼされた」とあり、『戦国策・西周策』にも「邾・莒は斉に亡ぼされ、陳・蔡は楚に亡ぼされた」と書かれています。
 
中国の解放軍出版社による『中国歴代戦争年表』では、『越史叢考』(蒙文通)からの引用として「斉威王九年から十四年(斉威王の在位期間には諸説があります)の間に斉が莒を滅ぼし、楚頃襄王年間(前297263年)に、楚が斉から莒を奪った」と解説しています。
 
[] 『資治通鑑外紀』はこの年に魯悼公が死に、子の元公・嘉が即位したとしています。
しかし『史記・六国年表』は魯悼公の死を二年後に書いています(東周考王十二年・前429年参照)。これは悼公の前の哀公が死んだ年がはっきりしないためです(東周貞定王元年・前468年参照)
 
 
 
翌年は東周考王十一年です。
 
考王十一年
430年 辛亥
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年(秦躁公十三年)、義渠が秦を攻めて渭南に至りました。
 
東周貞定王二十五年444年)に秦が義渠を攻めて王を捕えました。秦と義渠は対立しています。
十四年前に捕えられた義渠王が釈放されたのか、他の王が即位したのかはわかりません。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、晋敬公が死にました。幽公・柳が跡を継ぎます。
史記・晋世家』では出公の後、哀公を経て幽公が即位しており、『六国年表』では出公の後、哀公と懿公を経て幽公が即位しています。どちらにも敬公はいません(東周貞定王十一年・前458年および貞定王十七年・前452年参照)
 
また、『六国年表』は晋幽公柳元年を東周考王四年(437)としています。
 
 
 
翌年は東周考王十二年です。
 
考王十二年
429年 壬子
 
[] 秦躁公が在位十四年で死に、弟の懐公が立ちました。懐公の父は厲共公です。
史記・秦本紀』の注(正義)によると、懐公には昭太子がいましたが早逝しました。昭太子の子が懐公の次に即位する霊公になります。
 
[] 『史記・六国年表』によると、この年、魯悼公が死にました。
史記・魯周公世家』は悼公の在位年数は三十七年としています。
しかし『史記・六国年表』は悼公元年を定王(貞定王)三年(前466年)としているので、そこから数えると在位年数は三十八年になります。
資治通鑑外紀』は悼公の死を二年前に書いています(東周考王十年前431年参照)
 
 
 
翌年は東周考王十三年です。
 
考王十三年
428年 癸丑
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年、晋で雲がないのに雷が落ちました。
また、『資治通鑑前編』によると冬に桃杏が実をつけました。
 
 
 
翌年は東周考王十四年です。
 
考王十四年
427年 甲寅
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、魯の季孫氏が晋幽公と楚丘で会しました。
『古本竹書紀年』には「魯の季孫が晋幽公と楚丘で会し、(恐らく季孫氏が)葭密を取って城を築いた」とあります。
『竹書紀年』は晋幽公元年を東周考王十二年(前429年)としているので、本年は晋幽公三年になります。一説では「晋幽公三年」ではなく「晋幽公十三年」の出来事ともいわれています(『古本竹書紀年輯校訂補』参照)。その場合は東周威烈王九年(前417年)になります。
資治通鑑前編』は魯の季孫ではなく、魯侯が晋侯と会したとしています。
 
 
 
翌年は東周考王最後の年です。
 
考王十五年
426年 乙卯
 
[] 東周考王が死に、子の威烈王・午が立ちました。
 
考王の時代(具体的な時間はわかりません)、考王が弟・揭を河南に封じて周公の官職を継承させました。これを桓公といいます。『史記』の注である『正義』によると、東周敬王春秋時代が王城から成周に遷都して東周と称したため、王城は西周とよばれるようになりました。桓公は王城を都としたため、西周桓公とよばれます。
また、『索隠』には「西周桓公は名を揭といい、河南に住んだ。東周恵公(下記)は名を班(『古本竹書紀年』では「傑」)といい、洛陽(成周)に住んだ」とあります。
 
資治通鑑前編』には西周桓公を封侯した背景が書かれています。
考王は兄弟間の争いを経て王位を手にしたため、自分の地位を安定させるために弟の居場所を確立する必要がありました。そこで河南の地を封じ、国を分けて統治することにしたと考えられます(周王は東周の洛陽を治め、西周国が河南の王城を治めることになりました)
 
西周桓公の死後、子の威公が立ち、威公が死んで子の恵公が立ちました。
史記』の注(正義)によると、西周恵公の少子は名を班といい、東周顕王二年(前367年)に鞏に封じられました。班は東周恵公(父と同じ諡号です)といいます。
『正義』は西周恵公が少子を鞏に封じて周王を奉じさせたと書いています。東周恵公が周王室の政治を行うようになったようです。
しかし『帝王世紀』にはこう書かれています「東周恵公が封じられてから周は東西に分裂し、周王室はますます衰弱した。周王室の政治は西周が掌握した」。
実際に西周国が周王室の政治を行うようになるのは、赧王(周代最後の王)の時代になってからのことです。
 
[] 衛の公子・亹(誰の子かはわかりません)が昭公を殺して即位しました。これを懐公といいます。昭公の在位年数は六年です。
これは『史記・衛康叔世家』の記述です。事件の詳細は分かりません。
 
尚、『史記・六国年表』では「懐公」が「悼公」になっていますが、悼公は昭公の祖父(敬公の父)なので『六国年表』の誤りです。
 
また、『世本(秦嘉謨輯補本)』では悼公の子は敬公・費と慎公・頽で、敬公の子は撓公・舟、撓公の子が懐公・亹となっています。昭公が存在しません。慎公は東周威烈王十一年(前415年)に懐公を殺して即位します。
 
 
 
次回から東周威烈王の時代です。