戦国時代18 東周威烈王(二) 前419~414年
今回は東周威烈王七年から十二年です。
威烈王七年
前419年 壬戌
『史記・六国年表』は本年、魏が少梁に築城し、翌年、少梁で秦と魏が戦ったとしています。
[二] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、趙献子が泫氏に築城しました。趙献子(献侯)は趙浣を指し、趙襄子(無恤)の兄・伯魯の孫にあたります。
また、韓武子が平陽を都にしました。韓武子は韓康子(韓虔)の子で名を啓章といいます。
翌年は東周威烈王八年です。
威烈王八年
前418年 癸亥
[一] 『今本竹書紀年』によると、この年、趙が平邑に築城しました。
『古本竹書紀年』は晋烈公四年の事としていますが、烈公が即位した年に諸説があるため、東周威烈王の何年に当たるかを確定するのは困難です。『古本竹書紀年輯校訂補』は東周威烈王十四年(前412年)に書いています(年表参照)。
次回に続きます。」
翌年は東周威烈王九年です。
威烈王九年
前417年 甲子
[一] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年、楚人が晋(恐らく魏)の南鄙(南境)を攻め、上洛に至りました。
また、秦霊公が「君主を河の妻とした」とあります。『史記』の注(索隠)に解説があります。ここで使われている「君主」というのは「公主」と同じで、国君の娘です。河は河伯(黄河の神)です。秦霊公は娘を生贄として黄河に捧げたようです。
[三] 『史記・六国年表』によると、魏が再び少梁に築城しました。
翌年は東周威烈王十年です。
威烈王十年
前416年 乙丑
[一] 『古本竹書紀年輯校訂補』は晋幽公の死を本年に書いています(東周威烈王六年・前420年参照)。
『古本竹書紀年輯校訂補』は更に四年後の事としています(年表参照)。
威烈王十一年
前415年 丙寅
[一] 衛懐公十一年、公子(または「公孫」)・穨(または「頹」)が懐公を殺して自ら立ちました。これを慎公といいます。
『史記・衛康叔世家』によると、慎公の父は公子・適で、公子・適の父は衛敬公です。
しかし『世本(秦嘉謨輯補本)』は慎公を悼公の子としています。
[三] 秦霊公が死にました。
霊公には師隰(後の献公)という子がいましたが、秦人は霊公の季父(叔父)にあたる悼子を擁立しました。これを簡公といいます。簡公は昭子(早逝した懐公の太子)の弟です。
『史記・秦本紀』はこれを秦霊公十三年の事としていますが、霊公の在位年数は十年のはずです。『六国年表』も霊公の在位年数を十年としています。
[四] 『今本竹書紀年』によると、この年、田公子・居思が邯鄲を攻め、平邑を包囲しました。
『古本』には田公子・居思が趙鄙(趙の地方の邑)を攻め、平邑を包囲したとあります。
田居思は斉人で、田期思、田臣思、徐州子期とも書かれます。
『古本竹書紀年輯校訂補』を見ると、『水経・済水註』から「斉の田期が我東鄙を攻める」という文を引用しています。ただしこれは恵成王十七年の事とされているようです。済水は魏国を流れているので、「恵成王」は恐らく魏の恵王を指します。『史記・六国年表』では、魏恵王十七年は東周顕王十五年(前354年)になります。また、魏の事を述べているので、「我東鄙」というのは趙ではなく「魏の東鄙」になります。
[五] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年(越王・朱句三十四年)、於越(越)が滕国を滅ぼしました。
翌年は威烈王十二年です。
威烈王十二年
前414年 丁卯
[一] 『今本竹書紀年』によると、於越子(越王)・朱句が郯を攻め、郯子・鴣を連れて帰りました。
しかし『古本竹書紀年』は晋烈公四年(『六国年表』では、晋烈公四年は東周威烈王八年・前418年)に「越子・朱句が郯を滅ぼし、郯子・鴣を連れて帰る」としています。
[三] 『史記』の『趙世家』にはこの年、「中山武公が立つ」とあります。
『集解』は「徐広の説によると中山の武公は西周桓公の子。西周桓公は孝王の弟で定王の子」と書いています。しかし『索隠』は「中山は元鮮虞国。姫姓。『系本(世本)』によると、中山の武公は顧に住み、桓公が霊寿に移ったが、趙の武霊王に滅ぼされた。誰の子孫かは触れていない。徐広は武公が西周桓公の子としているが、根拠はない」として、『集解』を否定しています。
『資治通鑑前編』は「周の衰退が甚だしいので、王室の子弟を中山に封じるようなことはできないはずだ」という見解を載せています。
次回に続きます。