戦国時代20 東周威烈王(四) 斉の田和 前410~409年

今回は東周威烈王十六年と十七年です。
 
威烈王十六年
410年 辛未
 
[] 『史記・六国年表』によると日食がありました。
 
[] 『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』はこの年に魯元公が死んで穆公・顕(または「衍」)が立ったとしています。
しかし『史記・六国年表』は魯元公の死を二年後に書いています。これは哀公が死んだ年がはっきりせず、悼公と元公の元年にずれが生まれているためです(東周考王十年・前431年参照)
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、斉の田肹(『資治通鑑前編』では「田汾」)が邯鄲、韓挙(邯鄲は趙軍のこと。韓挙は韓の将。恐らく趙と韓の連合軍です)と平邑で戦いました。邯鄲の師(趙軍)が破れて韓挙は捕えられます。斉が平邑の新城(または「平邑」と「新城」)を取りました。
資治通鑑外紀』は東周威烈王十四年(前412年)の事としています。
但し田肹も韓挙も八十年ほど後に登場する将なので(田肹は田肦を指します。『資治通鑑外紀』は韓挙を趙将としていますが、韓挙は韓の将です)。『今本竹書紀年』と『資治通鑑外紀』の記述は誤りのようです(東周顕王四十四年・前325年に再述します)
 
[] 『資治通鑑前編』はこの年に斉の相・田荘子(田白。田伯)が死に、子の和が代わったとしています(翌年参照)
田和は田太公とよばれます。斉宣公の相になりました。
 
[] 『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』によると、周威烈王が韓と趙に命じて斉を攻撃させ、長城に入りました(東周威烈王十八年・前408年に再述します)
 
 
 
翌年は東周威烈王十七年です。
 
威烈王十七年
409年 壬申
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年(秦簡公六年)、秦が政令を発し、始めて吏(下級官吏)に剣を帯びさせました。
また、洛水を掘って堤防を作り(原文「壍洛」)、重泉に城を築きました。
しかし『六国年表』は洛水の堤防と重泉の築城を翌年の事としています。
 
[] 『史記・魏世家』によると、魏が秦を攻めて臨晋と元里に城を築きました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、魏文侯(魏斯)が秦を攻めて鄭に至り、兵を還して汾陰(汾水の南)と郃陽(郃水の北)に築城しました。
しかし『史記・魏世家』は翌年の魏文侯十七年(東周威烈王十八年・前408年)に魏が西の秦を攻めて鄭に至り、兵を還して雒陰(雒水の南)と合陽(郃陽)に築城したと書いています。
 
[] 以下、『竹書紀年』(今本・古本)の記述です。
「田悼子が死に、田和が継ぐ。田布が大夫・公孫孫(公孫が氏で名が孫?)を殺す。公孫会が廩丘で挙兵して趙に帰順する(公孫会以廩丘叛於趙)。田布が廩丘を包囲する。翟角、趙の孔屑および韓氏が廩丘の公孫会を助け、龍沢で田布と戦う。田師(田布軍)が敗退する。」
 
まず、田悼子というのは田荘子・田白(または「田伯」)を継いだ田氏の主です。名は分かりません。田荘子は田襄子(田盤)の子です。
『古本竹書紀年』は「斉宣公十五年、田荘子が死ぬ。翌年、田悼子が立つ」としています。
「宣公十五年」は東周貞定王二十八年(前441年)なので、時代が遡りすぎます。『史記・田敬仲完世家』は斉宣公四十五年(東周威烈王十五年・前411年)に斉が魯の一城を取り、その頃、田荘子が死んだと書いています。よって『古本竹書紀年』の「宣公十五年」は「宣公四十五年」の誤りという説もあります。
尚、『史記・田敬仲完世家』には「悼子」がなく、荘子が死んで子の太公・和が立ったとしています。
資治通鑑外紀』は『史記』にならっており、「田襄子・盤の死後、子の荘子・白が代わって相となり、荘子が死ぬと太公・和が継いだ。皆、宣公の相となった」と書いています。
また、『資治通鑑前編』は東周威烈王十六年(前410年)に「斉の田荘子が死に、子の和が代わる」としています(前年参照)
 
次は廩丘の戦いについてです。
史記・田敬仲完世家』には「宣公が在位五十一年で死ぬ。田会が廩丘で反す」とあります。
史記・斉太公世家』も「宣公が五十一年で死に、子の康公・貸が立つ。田会が廩丘で反す」としており、注(索隠)には田会は斉の大夫という解説があります。
斉宣公五十一年は東周威烈王二十一年(前405年。四年後)です。
田会は『竹書紀年』の「公孫会」と同一人物です。公孫孫という人物が殺されたことが挙兵の原因と思われますが、詳細はわかりません。
 
呂氏春秋・慎大覧・不広』に「斉が廩丘を攻めた。趙が孔青に死士を率いて廩丘を援けさせた。孔青が斉人と戦って大勝した。斉将は死に、孔青は車二千、屍三万を得た。これを使って京(死体を積み上げて土をかぶせた丘。戦勝を記念する塚)を二つ造った」とあります。
また、『孔叢子・論勢(第十五)』には「斉が趙を攻めて廩丘を囲んだ。趙は孔青に帥五万を率いてこれを撃たせた。孔青が斉軍に勝ち、屍三万を得た」とあります。
孔青は『竹書紀年』の孔屑です。
『竹書紀年』の翟角は魏の将です。翌年には「翟員」という名で登場します
 
[] 『史記・韓世家』によると、この年、韓武子が十六年で死に、子の景侯・虔(または「處」)が立ちました。
『世本(秦嘉謨輯補本)』は「景侯」ではなく「景子」としています。
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙献子(献侯)が十五年で死に、子の烈侯・籍が立ちました。
 
[] 『資治通鑑前編』に「魯侯が孔伋(子思。孔子の孫)を尊礼する」とあり、『孟子・万章下』から魯穆公(繆公)と子思の故事を紹介しています。以下、抜粋意訳します。
繆公が子思に会ってこう言いました「古の千乗の国主のような態度で士を友にしたとしたら如何だ?」
子思が不快になってこう言いました「古の人にはこういう言葉があります『仕えるということをどうして友のように接すると言えるのか(曰事之云乎,豈曰友之云乎)。』位爵位。身分)においては、子(あなた)は国君であり、私は臣に過ぎません。なぜ私が国君の友となれるのですか。徳においては、子が私に仕える(教えを請う)立場にいます。なぜあなたが私の友になれるのですか。」
 
同じく『孟子・万章下』にこのような話があります。
繆公は子思に対して頻繁に慰労の使者を送り、鼎肉(肉料理)を与えました。
しかし子思は喜ばず、ついに使者を大門の外に追い出して訪問を拒絶しました。
子思は北面して稽首再拝すると、こう言いました「国君が私を犬馬とみなして養おうとしていることが分かった。」
この後、繆公は物を贈らなくなりました。
賢人を愛しても用いることができず、正しい礼を使って養うこともできないようでは、本当に賢人を愛しているとはいえないのです。
 
資治通鑑前編』は「魯侯は公儀休を相とし、泄柳、申詳を臣とした」と書いています。
孟子・公孫醜下』にこうあります。
「魯繆公は子思の傍に常に人を侍らせていなければ、子思を安んじさせる(安定させる)ことができなかった(子思が魯から離れてしまうことを心配していたようです。子思は宋、衛等の国を遊歴しました)。泄柳と申詳が繆公の傍にいなければ、繆公は自分の身を安んじる(律する)ことができなかった。」

穆公と子思、公儀休に関しては別の場所でも書きます。
 
 

次回に続きます。