戦国時代 魯穆公、子思、公儀休

資治通鑑外紀』が『孔叢子』等を元に魯穆公と子思(孔伋)、公儀休について書いています。
ここでまとめて紹介します。
 
まずは『孔叢子・雑訓(第六)』からです。
魯穆公が子思を訪れて問いました「寡人は不徳なため、先君の業を継いで二年(または三年)が経つのに、どうすれば令名(美名。名声)を得ることができるのかわからない。寡人は先君の悪を隠し、先君の善を宣揚して、論者に先君を称えさせたいと思う。寡人がどうするべきか、先生の教えを請いたい。」
子思が言いました「伋(私)が聞くところによると、舜や禹は自分の父の悪を隠して善を宣揚するようなことはしませんでした。それは、そうすることを望まなかったからではなく、私情(親子の情)とは些細なものなので、公義の大きさに及ばないと考えたからです。だから私情の事を公事の上にしませんでした。虚飾の教えを尋ねられても、伋が話せる内容ではありません。」
穆公が言いました「民の利になる事を考えてほしい。」
子思が答えました「百姓に恩恵を与えようという心があるのなら、一切の非法(不合理)な事を除くべきです。住むことがない室()を棄てて窮民に下賜し、嬖寵(寵臣)の禄を奪って困匱(困窮・貧困)を救済し、人々に悲怨を抱かさなければ、後世にも名が伝えられるでしょう。」
穆公は納得しました。
 
『孔叢子・抗志(第十)』からです。
曾参の子・曾申が子思に言いました「自分を屈して伸道(教えや考えを広くに伝えること)するべきでしょうか。抗志(高尚な志)によって貧賎になるべきでしょうか(自分の意志に背いてでも、教えを拡めるために高官に就くべきでしょうか。志を守って貧賎なままでいるべきでしょうか)。」
子思が言いました「伸道(教えや考えを広くに伝えること)は私の願いです。しかし今の天下の王侯で、誰が道を全うできるでしょう(道を伝えようとしても無駄です)。このような状況で、自分を屈して富貴を得るくらいなら、抗志のために貧践となるべきです。自分を屈したら人に制されますが、抗志を貫けば道に対して慙愧の思いを持つ必要がありません。」
 
『孔叢子・公儀(第九)』からです。
魯に公儀休という者がおり、節を磨いて行いを正しました。道を楽しみ古事を愛し、栄利を軽んじて諸侯に仕えませんでした。
子思が公儀休の友だったため、穆公は子思を通じて公儀休を相に招きたいと思いました。
穆公が子思に言いました「公儀子は寡人を援けるべきだ。もし同意したら魯国を三分してそのうちの一つを与えよう。子(あなた)からこれを伝えてほしい。」
しかし子思はこう言いました「国君の言の通りに伝えたら、公儀子はますます来なくなるでしょう。国君が飢渇した時のように賢人を待ち望み、その謀を受け入れて用いるのなら、たとえ蔬菜を食べて水を飲む生活を送るようになったとしても、伋(私)もその風下に立つことを望みます。しかし高官厚禄を餌にして君子を釣るようでは、用いる意思があるのかどうか信用できません。公儀子の智が魚や鳥と同じならそれでも構いませんが、そうでないのなら、終生、国君の庭を踏むことはないでしょう。そもそも、臣も佞臣ではないので、国君の釣竿となって節を守る士を妨害するつもりはありません。」
 
 
史記・循吏列伝(巻百十九)』から公儀休に関してです。
公儀休は魯の愽士で、高弟(成績が優秀な人材。能力があり品行が優れている人材)として魯の相になりました。
法を奉じて理に則り、その姿勢を変えることがなかったため、百官の品行が自然に正されました。また、禄を受けている者(官員)が下民(庶民)と利を争うことを禁止し、大官が小官を虐げることも禁止しました。
 
公儀休の客が魚を贈ったことがありましたが、公儀休は受け取りませんでした。
客が言いました「あなたが魚を好むと聞いたからあなたのために魚を贈りに来たのです。なぜ受け取ってくれないのですか?」
公儀休が言いました「魚が好きだから受け取らないのだ。私は今、国相として自分で魚を手に入れることができる。しかしもし今回、魚を受け取って罷免されたら、今後、誰が私に魚をくれるというのだ。だからわしは受け取らないのだ。」
 
公儀休が自分の菜園で採れた野菜を食べた時、美味しいと思いました。すると菜園に残っていた野菜を全て引き抜いて捨ててしまいました。
また自分の家で織った布が美しいのを見て、すぐに家婦(妻)を追い出し、機織り機を焼き棄ててしまいました。
公儀休が言いました「農士(農民)や工女(機織りの婦女)から物を売る機会を奪ってはならない。」
 
 
孟子・告子下(六)』にこういう記述があります。
「魯繆公(穆公)の時代、公儀子が政治を行い、子柳と子思が臣下になったが、魯(公室)の削弱はますますひどくなった。」
賢人がいても三桓の勢いを防ぐことはできなかったようです。
 
 
『孔叢子・雑訓(第六)』から子思とその子・孔白(字は子上)に関する故事です。
子上が子思に雑諸子百家を学ぶことについて意見を請いました。
子思が言いました「先人に訓(教え。教訓)がある。『学問とは必ず聖人の教えに習わなければならない。そうすれば立派な人材になることができる。物を磨く時は必ず砥(研ぎ石)を使わなければならない。そうすれば鋭利な刃を作ることができる(学必由聖所以致其材也。厲必由砥所以致其刃也)。』だから夫子孔子の教えは必ず『詩』『書』から始まり、『礼』『楽』で終わるのだ。雑説に及ぶことはない。何の意見を請うというのだ。」
 
 
史記孔子世家』に孔子以後の家系が書かれています。
孔子は鯉を産みました。字を伯魚といいます。伯魚は五十歳の時、孔子よりも先に死にました。
伯魚は伋を産みました。字を子思といいます。子思は六十二歳で死にました。かつて、宋の地で困窮したことがあります。子思は『中庸』を編纂しました。
子思は白を産みました。字を子上といいます。子上は四十七で死にました。
子上は求を産みました。字を子家といいます。
史記』には漢代までの家系が書かれていますが、ここでは省略します。
 
 
最後は『説苑・至公(巻十四)』からです。
辛櫟が魯穆公に会って言いました「周公(魯の祖)は太公(斉の祖)の賢に及びません。」
穆公がその理由を問うと、辛櫟が言いました「周公は曲阜の地を選んで封じられ、太公は営丘の地を選んで封じられました。爵土爵位封地は同等なのに、周公の地は営丘の美に及ばず、人民は営丘の衆()に及びません。それだけでなく、営丘には天固(海や山等、自然の守り)があります。」
穆公は悔しいと思いましたが、言い返せませんでした。
辛櫟が出ていくと、南宮辺子が来ました。穆公は辛櫟の言を南宮辺子に語ります。すると南宮辺子はこう言いました「昔、周成王が成周の居城を建てる時、命亀(亀を使って卜うこと)でこう告げました『予一人(天子の自称)は天下を兼併した。百姓に近づくには、中土(天下の中央)にいなければならない。予に罪があれば、四方がこれを伐つのも困難ではない(この地に居れば、徳があれば長く存続し、徳がなければ容易に滅ぶ)。』(こうして成周の場所が選ばれました。)周公は曲阜を建てる時、命亀でこう言いました『山の陽(南)に邑を造り、賢ならば栄え、不賢ならば速やかに亡ぶ。』(こうして曲阜が選ばれました。)季孫行父は自分の子を戒めてこう言いました『わしは室(家)を両社(周社と亳社。朝廷がある場所)の間に置きたい。後世、国君に仕えることができない者が現れたら、速やかに替えさせるためだ(原文「使其替之益速。」恐らく、両社の力によって不肖な子孫を取り除くという意味です)。』だから『賢ならば栄え、不賢なら速く亡ぶ(賢則茂昌,不賢則速亡)』というのです。敢えて美しい地を選んで封じたのではありません。(この後に「或示有天固也」と続きます。「あるいは天固が示される」と訳せます。恐らく、「善政を行えば天固が示される」「天によって守られる」という意味です)。辛櫟の言は小人のものです。今後再びこの事について語る必要はありません。」