戦国時代21 東周威烈王(五) 魏の中山遠征 前408年

今回は東周威烈王十八年です。
 
威烈王十八年
408年 癸酉
 
[] 『史記・魏世家』によると、この年、魏が中山国を攻撃しました。
魏文侯は子撃(文侯の太子)に中山から奪った地を守らせます。趙倉唐が子撃の傅(教育官)になりました。
 
資治通鑑前編』は「晋の魏斯が宋を撃ち、楽羊に中山を討伐させた(原文「晋魏斯撃宋使楽羊伐中山」)」と書いています。恐らくこれは『史記・六国年表』の「撃宋中山」という記述が元になっています。しかし中華書局の『史記』を見ると、この「宋」は「守」の誤りで、「撃守中山」と訂正されています。「撃」は魏斯の太子の名です。
よって、『資治通鑑前編』の「晋の魏斯が宋を撃ち(原文「晋魏斯撃宋」)」という部分は恐らく誤りで、前後を合わせて「晋の魏斯が太子・撃と楽羊に中山を討伐して守らせた」となるのが正しいはずです。
 
『戦国策・魏一』に楽羊の中山遠征が書かれています。
楽羊が魏将として中山を攻めました。当時、楽羊の子が中山にいたため、中山の国君は楽羊の子を殺して羹(あつもの)を作り、楽羊に送りました。
それを受け取った楽羊は陣幕の中で羹を飲み干しました。これは中山攻撃の決意を示すためです。
魏文侯が覩師賛に言いました「楽羊はわしのために自分の子の肉まで食べた。」
すると覩師賛が言いました「自分の子の肉も食べることができるのです。他の誰の肉を食べることができないと言うのでしょう。」
楽羊は中山を滅ぼして凱旋しました。文侯は楽羊の功績を賞しましたが、疑心を抱きました。
 
資治通鑑』胡三省注が楽氏と中山について注釈しています。
楽氏は殷(商国)の微子の後裔です。宋戴公の四世孫に楽呂という者がおり、大司寇を勤めました。
中山国は春秋時代の鮮虞で、漢代には中山郡になります。城内に山があったため中山と称したといわれています。
 
『新序・雑事二』によると、楽羊による中山遠征は三年かけてやっと終了したようです。
遠征後、魏文侯が楽羊の功績を厚く賞すと、楽羊は再拝稽首して「これは臣の功ではありません。主君の力によるものです」と応えました。
 
魏が中山を攻撃するには趙を通る必要があります。『戦国策・趙一』に記述があります。
魏文侯が中山を討つために趙に道を借りようとしました。
趙侯が拒否しようとしましたが、趙利がこう言いました「それは誤りです。魏が中山を攻めて取れなかったら魏が疲弊します。魏が疲弊すれば趙の威信が重くなります。もし魏が中山を攻略したとしても、趙を越えて中山を治めることはできません。兵を用いるのは魏ですが、その地を得るのは趙です。主公は同意するべきです。しかしすぐに同意してしまったら、彼等は我が国が利を狙っていると気付くでしょう。敢えて躊躇するべきです。主公は道を貸すべきですが、仕方なく貸すという態度を示さなければなりません。」
 
資治通鑑』に当時の三晋の関係が紹介されています。出典は『戦国策・魏一』です。
韓と趙が対立しました。まず、韓が趙を攻めるために魏に兵を借りようとします。しかし魏文侯は「寡人と趙は兄弟だ。命に従うわけにはいかない」と言って断りました。
やがて趙も韓を攻めるため、魏に兵を借りようとしました。しかし魏文侯は韓に対する回答と同じ内容を趙に伝えます。二国はどちらも魏を怨みました。
しかし後に二国は魏文侯が自分の国に対しての関係を重視し、和を保とうとしていると知りました。
二国はそれぞれ魏に朝見しました。
この後、魏は三晋の中で最も大きくなり、諸侯で対抗できる国はなくなりました。
 
中山攻略後の事を『資治通鑑』からです。
魏文侯は楽羊に中山を討伐させ、占領した中山の地に子撃(太子・撃)を封じました。
文侯が群臣に問いました「わしはどのような主だ?」
皆が「仁君です」と答える中、任座(または「任痤」)だけがこう言いました「主公は中山を得ましたが、主公の弟ではなく主公の子を封じました。どうして仁君といえるでしょう。」
この発言の背景には隣国の趙襄子が自分の子ではなく兄の子孫に趙氏を継がせたことがあります(東周威烈王元年・前425年参照)
文侯が怒ったため、任座は小走りで退出しました。
文侯が翟璜にどう思うか問いました。『資治通鑑』胡三省注によると、翟姓は晋に滅ぼされた翟国の子孫で、国名を氏にしたようです。
翟璜は「仁君です」と答えました。
文侯がなぜそう思うか問うと、翟璜はこう答えました「君が仁であれば臣は直になるといいます。先ほどの任座の言は直というものです。だから臣は主公の仁を知ったのです。」
喜んだ文侯は翟璜を派遣して任座を呼び戻し、自ら堂を降りて迎え入れ、上客として遇しました。
 
尚、中山国は後に復国し、趙によって再び滅ぼされます(東周赧王二十年・前295)。復国した年ははっきりしません。
 
[] 『史記・魏世家』に魏文侯の太子・撃の故事が書かれています。
ある日、子撃が朝歌で文侯の師・田子方に会いました。子撃は車を退かせて道を開け、降りて拝謁します。しかし田子方は礼を返しませんでした。
子撃が田子方に問いました「富貴の者が人に対して驕るものですか?それとも、貧賎の者が人に対して驕るものですか?」
田子方が言いました「当然、貧賎の者が人に対して驕るものです。諸侯が人に対して驕ったら国を失い、大夫が人に対して驕ったら家(采邑)を失います。しかし貧賎の者は、自分の行動が理解されず、言が用いられなくても、その地を離れて楚や越に行くだけのことです。それは躧(靴)を脱ぎ捨てるように容易なことなので(若脱躧然)、富者と同列に語ることはできません。」
子撃は不快(不懌)になって去りました。
 
これは『資治通鑑』にも記述があります。『史記』の内容と若干異なるので以下に紹介します。
子撃が外出した時、道で田子方に会いました。子撃は車を降りて伏謁します。
しかし田子方が礼を行わなかったため、子撃が怒って言いました「富貴の者が人に対して驕るものですか?貧賎の者が人に対して驕るものですか?」
田子方が言いました「当然、貧賎の者が人に対して驕るものです。富貴の者がどうして人に対して驕ることができますか。国君が人に対して驕ったら国を失い、大夫が人に対して驕ったら家を失います。国を失った者が再び国を与えられたという話は聞いたことがなく、家を失った者が再び家を与えられたという話も聞いたことがありません。しかし貧賎の士は、言が用いられず行動を理解されなくても、履(靴)を履いて去る(納履而去)だけのことです。貧賎はどこに行っても得ることができます。」
子撃は田子方に謝りました。
 
[] 『史記・魏世家』によると、魏が西の秦を攻めて鄭に至り、兵を還して雒陰(雒水の南)と合陽(郃陽)に築城しました。
『竹書紀年』(今本)は前年の事としており、「洛陰」が「汾陰」になっています。
資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』は『史記』にならって本年に書いています。
 
[] 『史記・韓世家』によると、韓が鄭を攻めて雍丘を取りました。
史記・鄭世家』には韓景侯が鄭を攻めて雍丘を取り、鄭が京に築城したとあります。
 
[] 『史記・田敬仲完世家』によると、斉が魯を攻めて郕(または「成」。孟氏の邑)を取りました。
 
[] 楚簡王が在位二十四年で死に、子の声王・当が立ちました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、王(周王)が韓景子、趙烈子および我師(魏師。『竹書紀年』は魏国の史書なので、魏を「我」と書きます)に命じて斉を討伐させ、兵が長垣(長城)に至りました。
『古本竹書紀年』は「晋烈公十二年(『古本竹書紀年輯校訂補』では東周威烈王二十二年・前404年。年表参照)、王が韓景子、趙烈子、翟員に斉を討伐させ、長城に至った」としています。
「翟員」は前年に登場した「翟角」で、魏の将です。
 
資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』は二年前の東周威烈王十六年(前410年)の事としています。
 
呂氏春秋・慎大覧・下賢』に「(魏)文侯は士を礼遇することを好んだ。士を礼遇したおかげで、南は連堤で荊(楚)に勝ち、東は長城で斉に勝って斉侯を虜にした。それを天子に献上したため、天子は文侯を賞して諸侯に取り立てた」と書かれています。魏が斉侯を捕虜にしたという記述は『竹書紀年』にも『史記』等にも見られませんが、斉を攻めて長城(長垣)に至ったという内容は『竹書紀年』等と共通しています。
魏文侯が諸侯に立てられるのは五年後の事です。
 
[] 『史記・六国年表』に「秦初租禾」とあります。農作物の収穫に応じて税を取るようになったようです。
魯の「税畝」の制度とほぼ同じ内容だと思います(東周定王十三年・前594年参照)
西周時代の井田制が各国で崩壊していることを表しています。
 
[] 『史記・六国年表』はこの年に秦が洛水に堤防を造り、重泉に築城したとしています(前年参照)
 
[] 『史記・六国年表』によると、この年に魯元公が死にました。在位年数は二十一年です。子の顕が立ちました。これを穆公といいます(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』では二年前の事となっています。東周威烈王十六年・前410年および威烈王十七年・前409年参照)
なお、『世本(秦嘉謨輯補本)』は穆公の名を「不衍」としています。
 
資治通鑑外紀』が『孔叢子』等を元に魯穆公と子思について書いていますが、既に紹介しました。
 

 
次回に続きます。