戦国時代22 東周威烈王(六) 魏文侯 前407~406年

今回は東周威烈王十九年と二十年です。
 
威烈王十九年
407年 甲戍
 
[] 『史記・田敬仲完世家』によると、斉宣公が鄭人と西城で会しました。
また、斉が衛を攻めて毌丘を取りました。
 
[] 『史記・鄭世家』『韓世家』によると、鄭が韓を攻め、韓軍を負黍で破りました。
恐らくこの時、鄭は負黍を占領しました(東周安王八年・前394年参照)
 
[] 『史記・六国年表』はこの年に「魏文侯が子夏から経を受ける。段干木の閭を通る時、常に式(軾)を行う」と書いています。
これに関して『史記・魏世家』に記述があります。
文侯は子夏(卜商。孔子の弟子)から経芸(経書の教え)を学びました。
また、段干木の閭(巷の門。古代は二十五家を一閭とし、壁で囲んで門が設けられていました)を通る時は必ず軾礼(車上の礼)を行いました(どちらも文侯が人材を大切にしたことを語っています)
秦が魏を攻撃しようとしましたが、ある人が「魏君は賢人に対して礼を行い、国人がその仁を称賛しています。上下が和合しているので攻撃するべきではありません」と言って諫めたため中止しました。
文侯は諸侯の賛誉を得ました。
 
資治通鑑』から魏文侯に関する故事です。
魏文侯は卜子夏と田子方を師にしました。また、段干木の廬(家)の前を通る時は必ず式(軾)の礼を行いました。
文侯が賢人を厚遇したため、四方から多くの賢士が集まりました。
 
資治通鑑』胡三省注が姓氏の解説をしています。
卜氏は官名を氏にしたものです。
田氏は陳国出身で、陳敬仲(陳完)が陳氏を田氏に改めました。これは田という地を食邑にしたためとも、「陳」と「田」の音が近かったからともいわれています。
段干木は段が氏か段干が氏かはっきりしません。李耳、字は伯陽老子。別の字は耼)の子孫に李宗という者がおり、魏で段に封じられました。その後代にあたる干木が大夫になったため、段を氏にしたという説があります。しかし後に魏には段干子という者が現れます。この場合は段が氏ではなく、段干という複姓になります。
 
文侯が群臣を集めて酒を飲んだことがありました。音楽を奏で始めた頃、雨が降り始めます。
すると文公は車の準備をするように命じました。野(郊外)に行くためです。
左右の近臣が問いました「今日は酒を飲んで楽しんでおり、しかも天が雨を降らせました。主公はどこに行くつもりですか。」
文侯が言いました「わしは虞人(山沢を管理する官)と狩猟の約束をしていた。酒宴は楽しいが、約束を無視するわけにはいかない。」
文侯は自ら狩猟の中止を伝えるために退出しました。
 
文侯と田子方が酒を飲んだ時、文侯が音楽を聞いて言いました「鍾声が調和していないのではないか。左の鐘が高い。」
田子方が笑ったため文侯がその理由を問うと、田子方はこう言いました「国君とは楽官に明るく、楽音には明るくない(楽官を用いることはできるが、音楽そのものには精通していない)といいます。しかし今、主公が音に精通しているようだったので、官に対して聾であること(うまく官を用いることができないこと)を心配したのです。」
文侯は「そのとおりだ(善)」と言いました。
 
この他にも『資治通鑑外紀』が『呂氏春秋』等から魏文侯に関する故事を紹介していますが、別の場所で書きます。
 
資治通鑑前編』には「晋の魏斯が卜子夏から経を受け、田子方と友となり、段干木を敬った」とあります。
また、『資治通鑑前編』はこの年に「魏斯が呉起を西河守に、西門豹を鄴令に任命し、上地守・李悝が「尽地力の教」と「平糴法」を作って『法経』を著した」と書いています。
呉起と西門豹に関しては二年後に書きます(東周威烈王二十一年・前405年。次回参照)
李悝の「尽地力の教」と「平糴法」は東周威烈王十四年(前412年)に書きました。
『法経』というのは、李悝(または「李克」。但し、「李悝」と「李克」は別人という説もありますによってまとめられた当時においては最も完成された法典です。「盗法」「賊法」「囚法」「捕法」「雑法」「具法」の六編からなっていたといわれています。但し、具体的にいつ編纂されたのか、実際に李悝の手によって作られたものなのか等、異論・疑問も残されています。
 
とはいえ、李悝による改革によって魏は戦国時代初期の一大国に成長しました。この後、楚の呉起(魏から楚に移ります)、韓の申不害、秦の商鞅等によって各国でも改革が進められます。このように古い体制から脱却して法令制度を変革することを「変法」といいます。
 
 
 
翌年は東周威烈王二十年です。
 
威烈王二十年
406年 乙亥
 
[] 『資治通鑑外紀』が晋で起きた不思議な出来事を書いています。
夏五月、晋に三頭の大犬が現れました。大犬は数万の犬を率いて晋都・絳に集まります。
しかし一頭の犬は東方で、一頭の犬は西方で殺されました。
三頭の大犬は魏・趙・韓を表していると思われます。しかし東西でそれぞれ一頭が殺されたというのが何を意味するのかは分かりません。
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に秦簡公が在位九年で死んで敬公が立ったとしています。
史記』『資治通鑑』は簡公の死を東周安王二年(前400年)または三年(前399年)の事とし、簡公の後は恵公が継いでいます。
 
 
 
次回に続きます。