戦国時代23 東周威烈王(七) 呉起 前405~404年

今回は東周威烈王二十一年と二十二年です。
 
威烈王二十一年
405年 丙子
 
[] 斉宣公が在位五十一年で死に、子の康公・貸が立ちました。
当時の斉は完全に田氏が牛耳っています。康公は姜姓最後の斉君となります。
 
[] 『史記』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』はこの年に斉の田会が廩丘で叛したと書いています。『竹書紀年』は二年前の事としています(東周威烈王十七年・前409年参照)
 
[] 『史記・六国年表』にはこの年に魏が相を選び、李克(または「李悝。但し、「李悝」と「李克」は別人という説もありますと翟璜が争ったとしています。これは『史記・魏世家』と『資治通鑑』に記述があります。以下、『資治通鑑』からです。
文侯が李克に問いました「先生はかつてこう言いました。『家が貧しければ良妻を思い、国が乱れたら良相を思う(家貧思良妻,国乱思良相)。』私は相を置こうと思っていますが、成魏成。『史記・魏世家』では「魏成子」でなければ璜(翟璜)でしょう。二子のどちらが相応しいでしょうか?」
資治通鑑』胡三省注は李氏について書いています。李氏は顓頊の曾孫・皋陶が帝堯の大理になったことから始まります。その子孫が官名から理氏を名乗りました。商紂の時、裔孫(子孫)の理利貞という者が難を避けて逃走し、木子(木の実。または李)を食べて生き延びました。そこから李氏に改めたといいます。
 
文侯に対して李克が言いました「身分が卑しい者は尊貴な者の事に参与せず、疎遠な立場にいる者は親族の事に参与しない(敬卑不謀尊,疏不謀戚)といいます。臣は闕門(宮門)の外にいるので、命に応えることはできません(臣は主公から疎遠な立場にいるので、質問に答えることはできません)。」
文侯が言いました「先生は事に臨みながら避けるのですか。」
李克が言いました「主公は人をよく観察していません。平時は誰と親しくしているかを観察し、富貴の時は誰に与えているかを観察し、官に就いたら誰を推挙するかを観察し、窮したら何をしないかを観察し、貧困になったら何を取らないかを観察する(居視其所親,富視其所与,達視其所挙,窮視其所不為,貧視其所不取)、この五者の観察がしっかりできていればおのずから決められるはずです。克(私)の答えを待つ必要はありません。」
文侯は「先生は舍にお帰りください。私の相は決まりました」と言いました。
退出した李克が翟璜に会いました。翟璜が問いました「主公は先生を招いて相を卜った(選んだ)と聞きました。誰に決まりましたか?」
李克が言いました「魏成です。」
翟璜が顔色を変えて不満そうに言いました「西河の守・呉起は臣が進めた人材です。主公が内地の鄴を心配した時には、臣が西門豹を進めました。主公が中山を討とうとした時には、臣が楽羊を進めました。中山を攻略してから誰に守らせるか困った時には、臣が先生を進めました。主公の子に傅がいなかったので、臣が屈侯鮒を進めました(三年前は趙倉唐が魏文侯の太子・撃の傅になったと書きました。複数の傅がいたか、交代したのかもしれません。『資治通鑑』胡三省注によると、屈は晋の地で当時は魏に属しています。鮒は名で、魏から屈侯に封じられたようです)。これらは耳で聞き、目で見ることができる事実です。臣のどこが魏成に及ばないのですか。」
李克が言いました「子(あなた)が克(私)を主公に進めたのは、周(徒党)を作って大官を求めるためですか?主公が相について克に意見を求めたので、克は自分の意見を述べたのです。主公は魏成を相に選びます。なぜなら、魏成は千鍾(一鍾は六斛四斗)を禄としながら什九(十分の九)を外で使い、什一(十分の一)だけを内(家)で使っています。その結果、東で卜子夏、田子方、段干木を得ることができました。この三人は全て主公の師です。子が進めた五人は皆、主公の臣です。どうして子が魏成に匹敵するのでしょうか。」
翟璜はその場を行ったり来たりしてから再拝し、「璜は鄙人(浅はかな小人)なので失言しました。生涯、先生の子弟にさせてください」と言いました。
 
ここで名が出た西門豹は『史記・滑稽列伝』に詳しい記述があります。別の場所で書きます。
資治通鑑』胡三省注によると住んでいる場所の特徴から東門、西郭、南宮、北郭といった氏が生まれました。西門もその一つです。
 
資治通鑑』は魏の名将・呉起の紹介をしています。
呉起は衛人でしたが魯に仕えました。『資治通鑑』胡三省注によると、呉氏は国名を元にした氏です。
以前、斉人が魯を攻めた時、魯人が呉起を将に任命しようとしました。しかし呉起は斉女を妻としていたため、魯人は呉起を疑いました。それを知った呉起は妻を殺して将になることを求め、斉軍と戦って大勝しました。
ところがある人が魯侯(恐らく穆公)にこう言いました「起はかつて曾参孔子の弟子。『資治通鑑』胡三省注によると曾氏は国から生まれました)に師事していました。しかし母が死んだのに故郷に帰って喪に服さなかったため、曾参は関係を絶ちました。今回また妻を殺して国君の将となりました。起は残忍薄行の人です。そもそも小国の魯が敵に勝つという名を上げたら、諸侯が魯を狙うようになるでしょう。」
呉起は魯で罪を得ることを恐れました。ちょうどその頃、魏文侯が賢人だと聞いたため、魏に向かいました。
文侯が呉起について李克に問うと、李克はこう言いました「起は貪婪で好色ですが、用兵に関しては司馬穰苴(斉景公時代の賢将。司馬は官名で田氏)も及びません。」
文侯は呉起を将に抜擢し、秦を攻めて五城を攻略しました。
 
将となった呉起は常に士卒の最下級の者と衣食を共にし、寝る時も臥床を作らず、行軍も車に乗らず、自ら食糧を担ぎ、士卒と苦労を分けあいました。
ある時、一人の兵卒に疽(腫れ物)ができました。呉起は自ら口で膿を吸い出します。
それを聞いた母が哀哭したため、周りにいた人が問いました「あなたの子は兵卒に過ぎません。将軍自ら疽を吸ってくれたのに、なぜ哀哭するのですか?」
母が言いました「往年、呉公はあの子の父の疽も吸い出しました。そのため、あの子の父は戦場で踵を返すことがなく、敵に殺されたのです。今回、呉公は子の疽を吸いました。妾(私)は我が子の死に場所が分からなくなると思い(家で死なず戦場で死ぬことになったと思い)、痛哭したのです。」
 
[] 『資治通鑑前編』はこの年に「晋の趙籍(烈侯)が公仲連を相にする」と書いています。公仲連に関しては東周威烈王二十四年(前402年)に書きます。
 
 
 
翌年は威烈王二十二年です。
 
威烈王二十二年
404年 丁丑
 
[] 『新序・雑事五』と『韓詩外伝・巻六』によると、宋昭公は鄙(辺境)に出奔したことがあったようです。以下、『韓詩外伝』からです。
昭公が出奔した時、嘆息して御者に言いました「わしはなぜ亡命することになったかやっとわかった。」
御者が「どうしてですか?」と問うと、昭公が言いました「わしには侍御(従者や妃妾)が数十人(『新序』では数百人)もいたが、わしが服を着て立てば、誰もが口をそろえて『我が君はとても立派です』と言っていた。我が朝臣は数百人(『新序』では千人)もいたが、政事を行う時、誰もが口をそろえて『我が君は聖者です』と言っていた。内外とも私の過失を責めることがなかったから、このような事態を招いてしまったのだ。」
宋昭公はこう考えました「人主の周りに媚び諂う者が多ければ、人主は国家から離れて社稷を失うことになる。」
そこで宋昭亡は行いを改めて節義を守るように心掛けました。
二年もせずに名声は宋に拡がります。宋国は昭公を迎え入れて復位させました。
 
この年、昭公が在位四十七年で死に、子の悼公・購由が立ちました。
資治通鑑外紀』の記述はこの出来事で終了します。
 
 
 
次回に続きます。