戦国時代24 東周威烈王(八) 三晋封侯 前403~402年

今回は東周威烈王二十三年と二十四年です。
 
威烈王二十三年
403年 戊寅
本年から『資治通鑑』の記述が始まります(今までも『資治通鑑』の記述を随所で紹介してきましたが、全て本年にまとめて書かれています)。この通史の内容も『資治通鑑』が主になります。
 
[] 『資治通鑑』の記述は三晋(魏・趙・韓)の封侯から始まります
周威烈王が晋の大夫・魏斯、趙籍、韓虔を諸侯に封じました。
 
以前にも書いた内容に重複しますが、『資治通鑑』胡三省注が簡単に三晋の説明をしています。
魏の先祖は畢公・高の子孫で周と同姓です。その子孫を畢万といい、始めて魏に封じられました。その後、魏舒が晋の正卿となり、三世後、魏斯に至ります。
趙の先祖は造父の子孫で、叔帯の代になって周から晋に遷りました。趙夙が晋によって耿に封じられます。その後、趙盾が始めて晋の正卿となり、六世後、趙籍に至ります。
韓の先祖は周武王の子です。子孫の韓武子が晋に仕え、韓原に封じられました。韓厥の代に始めて晋の正卿となり、六世後、韓虔に至ります。
三家は代々晋の大夫であり、周王室から見たら陪臣(諸侯の臣)になります。周王室が衰退してからは晋が中原の盟主として王室を尊んできたため、周は晋を伯(覇者)に任命しました。しかし三卿が晋で権力を握り、国君を虐げて国を三分するようになりました。本来、周王は三卿を誅殺するべき立場にいましたが、威烈王は三卿を誅滅せず、逆に諸侯に封じました。『資治通鑑』は名分を重んじて、この事件を筆頭に置きました。
 
『周本紀』には「九鼎が震え、韓、魏、趙を諸侯に封じた」とあります。九鼎は天子の象徴です。それが震えたというのは、天子の権威の失墜と、身分秩序の崩壊を象徴しています。
資治通鑑前編』は「戊寅二十三年(本年)、九鼎が震える」を最後の記述としています。
 
『今本竹書紀年』はこの年に「王が晋の卿である魏氏、趙氏、韓氏に命を下し、諸侯に封じた」と書いています。
『古本竹書紀年』には燕簡公が即位して十三年後に「三晋命邑為諸侯(恐らく「三晋が諸侯として邑を封じられる」という意味です)」とあります。
 
燕簡公に関して、『古本竹書紀年』は「燕文公が二十四年で死に、簡公が立つ」としています。『古本竹書紀年輯校訂補』は燕文侯の死を東周威烈王十年(前416年)に置き、簡公元年を東周威烈王十一年(前415年)としています。よって燕簡公十三年は本年(威烈王二十三年・前403年)になります。
但し、『史記・燕召公世家』に簡公という名はなく、三晋が封侯された年の燕は湣公三十一年(下述)になっています。
また、『世家』を見ると燕文公は湣公の後に釐公、桓公の二君を経てから即位します。
 
[] 趙が「献子(趙浣)」を追尊して「献侯」としました。
 
[] 燕湣公が在位三十一年で死に、子の僖公(釐公)が立ちました。
資治通鑑』胡三省注に燕国の解説があります。燕は召公奭が北燕に封じられて始まりました。召公から湣公までは三十二世になります。
資治通鑑』は『史記・燕召公世家』を元にしています。しかし『竹書紀年』(古本)は上述の通り本年を燕簡公十三年としています。
また、楊寛の『戦国史』では、燕簡公十二年になっています(年表参照)
 
 
 
翌年は威烈王二十四年です。
 
威烈王二十四年
402年 己卯
 
[] 東周威烈王が死にました。
史記・周本紀』は威烈王の死後、子の安王・驕が即位したと書いていますが、『帝王世紀』は威烈王の子の名を「躭」、諡号を「元安王」としています。
資治通鑑』は『史記』と同じで、威烈王が死に、子の安王・驕が立ったとしています。
 
[] 盗賊が楚声王を殺しました。声王の在位年数は六年です。
楚の国人は声王の子・悼王を立てました。
史記・楚世家』は悼王の名を熊疑としていますが、『六国年表』には悼王・類とあります。『資治通鑑』胡三省注は『楚世家』と同じで、悼王の名を疑としています。
 
[] 『史記・六国年表』はこの年に「趙烈侯が音楽を愛し、歌者に田(土地)を下賜しようとするが、徐越が仁義によって諫止する」と書いています。
史記・趙世家』に詳しく紹介されています。但し『年表』と少し異なります。
音楽を愛する烈侯が相国・公仲連に問いました「寡人が気に入った者に貴(尊貴)を与えることができるか?」
公仲連が言いました「富を与えることはかまいません。しかし貴を与えるのは相応しくありません。」
烈侯は「わかった(然)。鄭の歌者である槍と石(槍と石は歌手の名)の二人に田(土地)を下賜しよう。一人に万畒だ」と言いました。
しかし公仲連は「わかりました(諾)」と言うだけで土地を与えようとしません。
一カ月後、代に行っていた烈侯が戻ってから、歌者の田地について問いました。公仲連は「今、土地を選んでいます。まだいい場所が見つかりません」と答えます。
暫くして烈侯がまた状況を確認しました。公仲連はやはり土地を与えず、病と称して入朝しなくなりました。
この頃、番吾君(番吾は地名。趙の属領の主?)が代から来て公仲連に言いました「国君(趙烈侯)は善政を行いたいと思っていますが、どうすればいいのかわかりません。公仲が趙の相になって既に四年が経ちましたが、優秀な士を進めたことがありますか?」
公仲連が「まだです」と答えると、番吾君は牛畜、荀欣、徐越の三人を推薦しました。
公仲連は早速三人を推挙するために入朝しました。公仲連を見た烈侯がまた問いました「歌者の田はどうなっている?」
公仲連が答えました「人を送って善い土地を選ばせているところです。」
 
登用された三人が烈侯と話をしました。
まず牛畜は烈侯に仁義を語り、王道によって行いを正すように勧めます。烈侯の態度が温厚寛和になりました。
翌日は荀欣が人材を選んで賢人を抜擢するように勧めました。烈侯は能力に応じて官員を任命するようになります。
三日目には徐越が倹約について語り、功績や徳行をよく考察するように勧めました。
三人の教えは全て道理にかなっています。
喜んだ烈侯は人を送って相国にこう伝えました「歌者に田を与えるのは中止する。」
烈侯は牛畜を師に、荀欣を中尉に、徐越を内史(首都の長官)に任命し、公仲連に衣服二襲(「襲」は衣服の量詞で「そろい」の意味)を与えました。
 
 
 
次回から東周安王の時代です。