戦国時代 西門豹

本編で西門豹が登場しました。
以下、『戦国策』と『史記』の記述を紹介します。
 
まずは『戦国策・魏一』からです。
西門豹が魏の鄴令に任命されました。
西門豹が魏文侯に別れを告げに来た時、文侯が言いました「子(汝)が行けば、必ず子の功を成就させて子の名を成すことができる。」
西門豹が問いました「功を成就し名を成すためには、術(方法)があるものでしょうか。」
文侯が言いました「ある。郷邑において、老齢の者で人々から坐を譲られるような士がいたら、子はその者に賢良の士について訊ねて師事せよ。好んで人の美を覆い隠し、人の醜をあげつらうような者を探して、その行いを参験(参考・検証)せよ(徳が低い者を見て自分の行いを正せ)。多くの物が似ているが実際には異なるものだ。幽莠(幽は幼い。莠は草の名)が小さい頃は禾(稲)に似ている。驪牛(まだらの牛)の黄色いものは虎に似ている。白骨は象象牙に似ており、武夫(石の一種)は玉に似ている。しかしこれらは全て似て非な者である(だから人を選ぶ時も注意しなければならない)。」
 
次は『史記・滑稽列伝(第百二十六)』からです。注(正義)の内容もまじえて紹介します。
魏文侯の時代、西門豹が鄴令になりました。
鄴に到着した西門豹は長老を集め、民が苦しんでいる事がないか聞きました。長老が言いました「河伯が婦(嫁)を娶っており、これが原因で貧困に苦しんでいます。」
河伯黄河の神です。『正義』によると元は華陰潼郷の人で、姓は馮氏、名は夷といい、黄河で水浴びをしていた時に溺死して河伯になったといいます。
西門豹が詳しく聞くと、長老が言いました「鄴の三老と廷掾が毎年百姓から税をとり、数百万の銭を得ています。そのうちの二三十万は河伯が婦を娶る時に使い、祝・巫が残った銭を分けて持ち帰っています。その時が近づくと巫が人々の家を巡って容姿が優れた女を探し、河伯に嫁がせると言って連れて帰ります。女は洗沐(沐浴)の後、新しく作った繒綺(絹織物)の衣服を着せられ、一人で部屋に籠って斎戒をします。河岸に斎宮(斎戒用の家)が建てられ、緹絳(赤)の帷(幕)で覆われ、女はその中に住みます。婚礼のために牛酒や食事が用意されます。十余日にわたる準備と斎戒の後、婚礼の装飾がされ、娘が嫁ぐ時に使う床席が作られます。女がその上に乗り、河中に浮かべられます。始めは河を流れて行きますが、数十里進んだ所で水没します。容姿に優れた娘をもつ者は大巫祝に連れ去られることを恐れ、多くが娘を連れて逃亡しました。その結果、城中は空になり、ますます貧困に苦しんでいます。このような状況が既に長く続いていますが、民人は『河伯に婦を娶らさなかったら水が襲ってこの地が沈められ、人々が溺れ死ぬことになる』と噂しています。」
西門豹が言いました「河伯が婦を娶る時が来たら、三老、巫祝、父老が女を河岸に送ってください。また、その時には私にも報せてください。私も女を送りに行きます。」
皆が「わかりました(諾)」と答えました。
 
その日が来ました。
西門豹も黄河の岸に行きます。三老、官属、豪長者(富家)や里の父老が全て集まりました。民衆の数は二三千人に達します。
巫は老女で既に七十歳を超えていました。巫には女の弟子十人が従っており、皆、絹の単衣を着て大巫の後ろに立っています。
西門豹が言いました「河伯の婦(嫁)を呼べ。美しいかどうか確認してやろう。」
巫は嫁に選ばれた女を幕の中から出して西門豹の前に連れて来ました。
女を見た西門豹は振り向いて三老、巫祝、父老に言いました「この女子は美しくない。大巫嫗(嫗は老女の意味)には手間をかけさせて悪いが、河に入って河伯に『嫁を選び直して後日送ることにする』と伝えてきてくれ。」
言い終わると西門豹は吏卒に命じて大巫嫗を抱きかかえさせ、黄河に投げ入れるように命じました。
大巫嫗は黄河に投げられます。
暫くして西門豹が言いました「巫嫗が行って久しくなる。弟子が行って見てこい。」
弟子の一人が黄河に投げられました。
暫くして西門豹が言いました「弟子もまだ戻って来ない、もう一人を送って見に行かせよう。」
また一人の弟子が投げられました。
同じように三人目の弟子が黄河に投げ入れられてから、西門豹が言いました「巫嫗と弟子は女だから事をうまく説明できないのだろう。三老に話をしてきていただこう。」
こうして三老も黄河に投げ入れられました。
西門豹は簪筆磬折(簪筆は礼を行う時の冠の装飾。磬折は腰を曲げた様子。どちらも恭敬を示す姿です)のまま黄河に向かって立ち、長い時間待ちました。
長老も官吏も周りで見ている者達も皆、驚恐としています。
西門豹がやっと振り向いて言いました「巫嫗も三老も帰って来ないのは何故だ?」
西門豹は廷掾と富豪を一人ずつ選んで黄河に投げようとします。すると廷掾や富豪達はその場に伏せて叩頭し始めました。頭を地面に打ちつけて額から血を流し、顔は死者のように灰色になっています。
西門豹が言いました「わかった(諾)。もう少し様子をみよう。」
暫くして西門豹が言いました「廷掾よ、立て。河伯は客を留めて久しい。皆、解散して家に帰れ。」
鄴の吏民は恐れ驚き、この後、河伯が婦を娶ることを話す者はいなくなりました。
 
西門豹は民を動員して十二渠を築き、河水を引いて民田を潤しました。
灌漑を始める前の民衆は工事の労苦を嫌って反対しました。
西門豹はこう言いました「民とは成果を共に喜び楽しむことができるが、物事の開始を共に考慮することはできない。今は父老子弟が私によってもたらされる労苦を嫌っているが、百年後の父老子孫が私の言をよく考えてくれればそれでいい。」
灌漑工事が終わってからは全ての民が水の利を得るようになり、これがきっかけで鄴は豊かになりました。
 
最後は『淮南子・人間訓』からです。
西門豹が鄴を治めましたが、廩穀物の倉庫)には食糧の蓄えがなく、府(物資の倉庫)には金銭財宝の蓄えがなく、庫(武器庫)には甲兵(甲冑・武器)の蓄えがなく、官(官府・官所)には支出の帳簿がありませんでした。人々がこの状況を何回も文侯に話したため、文侯は自ら鄴県に行って確認します。
その結果、人々が言うように鄴には何の蓄えもありませんでした。
文侯が言いました「翟璜が子()に鄴を治めさせたが、大きな混乱を招いている。子が道理のかなった弁明ができるのならそれでいいが、もしできないようなら誅を加えなければならない。」
西門豹が言いました「王者は民を富ませ、覇者は武(士兵)を富ませ、亡国の君は府庫を富ませる(王主富民,霸主富武,亡国富庫)といいます。今、王は霸王の地位を欲しています。だから臣は民に蓄積させたのです。国君がそれを信用しないなら、城壁に登って鼓を叩いてください。甲兵(武器)粟米(食糧)ともすぐに集まります。」
そこで文侯は城壁に登り、鼓を叩きました。一度敲くと甲冑を着た民が弓矢等の武器を持って集まります。再び敲くと食糧を背負った民が集まります。
文侯は「わかった」と言いました。
しかし西門豹はこう言いました「民と結んだ信は一日で作られたものではありません。一挙しながら欺いたら(何もないのに民を動員したら)、今後用いることができなくなります。燕がしばしば魏を侵して城を取りました。臣が北撃して失地を取り戻すことをお許しください。」
こうして西門豹は兵を率いて燕を討伐し、奪われた土地を取り返して帰還しました。