戦国時代26 東周安王(二) 前395~388年
今回は東周安王七年から十四年までです。
安王七年
前395年 丙戍
翌年は東周安王八年です。
安王八年
前394年 丁亥
[一] 斉が魯を攻めて最を取りました。
『史記・六国年表』には韓が魯を援けたとあります。
『資治通鑑』胡三省注が斉と魯について解説しています。
[二] 鄭の負黍(東周威烈王十九年・前407年)が叛し、再び韓に帰順しました。
[三] 『古本竹書紀年』によると、この年、秦敬公が在位十二年で死に、恵公が立ちました。
『古本竹書紀年』では簡公(東周威烈王二十年・前406年死去)→敬公→恵公としています。
翌年は東周安王九年です。
安王九年
前393年 戊子
[一] 魏が鄭を攻めました。
これは『資治通鑑』の記述です。
『資治通鑑』胡三省注が晋について解説しています。
西周成王が弟の叔虞を唐に封じ、唐叔・虞の子である燮父が晋水の辺を都として晋を建国しました。燮父から晋侯を名乗ります。唐叔から烈公は三十七世になります。
[三] 『史記・楚世家』によると、この年、楚が韓を攻めて負黍を取りました。
翌年の東周安王十年は特に記述することがありません。
安王十年
前392年 己丑
翌年は東周安王十一年です。
安王十一年
前391年 庚寅
[一] 秦が韓の宜陽を攻めて六邑を取りました。
[二] 『資治通鑑』本文と胡三省注がここで斉の田氏について紹介しています。
かつて陳の公子・完が斉に出奔しました。五世後の田恒(田常)の代になって斉の政治を行うようになります。
田恒の後、襄子・盤、荘子・白、太公・和と継ぎました。
[三] 『史記・楚世家』によると、この年、三晋が楚を攻めて大梁と楡関で楚軍を破りました。
楚は秦に厚い礼物を贈り、秦と和を結びました。
翌年は東周安王十二年です。
安王十二年
前390年 辛卯
[一] 秦と晋が武城で戦いました。
[二] 斉が魏を攻めて襄陵(または「襄陽」)を取りました。
[三] 魯が平陸で斉軍を破りました。
翌年は東周安王十三年です。
安王十三年
前389年 壬辰
[一] 秦が晋を侵しました。
呉起が答えました「厳明の事については、臣は詳しく知りません。しかし、それらだけに頼ってはなりません。号令を発したら人々が喜んでそれを聞き、師を興して衆を動かしたら人々が喜んで戦い、兵を交えて刃を接したら人々が喜んで死ぬ(死力を尽くす)、この三者こそ、人主が頼りとするべきことです。」
武侯が問いました「そのようにするのはどうすればいいか?」
武侯は廟廷(宗廟の庭)に宴席を設け、三列に分けて士大夫をもてなしました。上功の者が前列に座り、餚席(肉、魚等を使った酒席)には重器(貴重な食器)と上牢(豚・牛・羊)が具えられます。次功の者は中列に座り、餚席に使う食器の等級が落とされます。功がない者は後列に座り、餚席には重器がありません。
宴が終わってから、廟門の外で功がある者の父母や妻子に賞賜が与えられました。功績の内容によって賞賜にも差があります。
国事のために死んだ者の家族には、毎年使者を送ってその父母を慰労し、賞賜を与えて忘れていないことを示しました。
このようにして三年が経った頃、秦人が兵を興して西河に臨みました。
それを聞いた魏の士卒は吏令(官吏の命令)を待つことなく、自ら甲冑を着て戦いに駆けつけました。その数は万人を越えます。
呉起が言いました「人には短長(短所と長所)があり、気(士気)には盛衰があるといいます。功がない者五万人を発して臣に率いさせてください。もし勝てなかったら諸侯の笑い者となり、天下において権威を失います。(しかし負けることはありません。)例えば、一人の死賊(死罪に値する賊)が曠野に隠れているとします。千人がそれを追いかけたとしても、皆が梟視狼顧(警戒して慎重に動くこと)します。なぜなら、賊が突然現れて自分が害されることを恐れるからです。たった一人でも、命をかけたら千夫を懼れさせることができるのです。臣は五万の衆を一人の死賊と同じようにしました(五万人は命をかけることができます)。これを率いて討てば対抗できる者はいません。」
その結果、呉起は五十万の秦軍を破りました。これは励士の功によるものです。
戦いの前日、呉起が三軍(全軍)に命じました「諸吏士は命に従って敵と戦い、車騎や徒(歩兵)を駆けさせよ。もし車が敵の車を得ることができず、騎が敵の騎を得ることができず、徒が敵の徒を得ることができなかったら、軍を破ったとしても功を立てたとはみなさない。」
呉起の宣言のおかげで、戦いの日はほとんど軍令を出しませんでしたが、武威によって天下を震わせることができました。
[二] 斉の田和が魏文侯、楚人、衛人と濁沢で会見しました。
田和が自ら諸侯に立つために協力を求めます。
魏文侯が田和のために周王や各国の諸侯に働きかけ、周王は田和の封侯に同意しました。
東周安王十六年(前386年)に田和が正式に諸侯に封じられます。
翌年の東周安王十四年は特に記述することがありません。
安王十四年
前388年 癸巳
次回に続きます。