戦国時代 聶政

東周安王五年397年)に刺客・聶政が登場しました。

本編では『資治通鑑』の内容を元にしたので、ここでは『史記』を中心に少し詳しく紹介します。
 
聶政は軹邑・深井里の人です。人を殺したため、仇を避けて母、姉と共に斉に入り、屠殺業に従事していました。
 
史記・刺客列伝』によると、韓哀侯に仕えていた濮陽の厳仲子(厳遂。仲子は字)が韓の相・俠累と対立していました。『戦国策・韓策二』でも哀侯時代の事となっています。しかし聶政が俠累を殺すのは韓列侯の時代で、哀侯は列侯より後の国君なので、時代が合いません。
なお、『戦国策・韓策二』は「俠累」が「韓傀」となっています。『史記』の注釈(集解)には「俠累の名が傀」とあります。
 
厳仲子は俠累に害されることを恐れて逃亡し、各地を巡って仇(俠累)に報いることができる者を探しました。
厳仲子が斉に来た時、斉のある人が「聶政は勇敢な士ですが、仇を避けて屠者の中に隠れています」と言いました。
そこで厳仲子は聶政の家を尋ねることにしました。何回も往復してから酒宴を開き、自ら聶政の母にも杯を捧げます。酒が回ると厳仲子が黄金百溢を贈って聶政の母の長寿を祝いました。
聶政はあまりの厚遇に驚いて固く辞退します。しかし厳仲子も譲りません。
聶政が言いました「臣は幸いにも老母が健在です。貧しい家ですが、狗屠を生業としてここに住み、旦夕(朝夕)には甘毳(美食)を得て親を養っています。親を養うだけなら充分な備えがあるので、仲子の賜を受け取るわけにはいきません。」
すると厳仲子は人払いをして聶政にこう言いました「臣には仇とする人がいるので、諸侯の国々を周遊してきました。斉に来て、足下が義を重んじていると聞いたので、こうして百金を進め、夫人の麤糲(食糧。雑穀)の費にでもしていただこうと思っているのです。足下に喜んでいただければ充分です。他に望むことはありません。」
聶政が言いました「臣が志を落として身を辱め、市井に住んで屠者になったのは、ただ老母を養いたいと思っているからです。老母が健在である以上、政(私)の身を誰かに委ねるわけにはいきません。」
聶政は厳仲子の礼物を固辞しました。厳仲子は賓主の礼を尽くして去りました。
 
久しくして聶政の母が死にました。
葬儀が終わって喪服を脱いだ聶政が言いました「政(私)は市井の人に過ぎず、刀を奮って屠殺を行ってきた。しかし、厳仲子は諸侯の卿相という地位にいながら、千里の距離も厭わず、車騎を走らせて臣と交わりを結んだ。臣は厳仲子に対して浅鮮(情義が浅いこと)であり、大功を立てて報いることもできていない。厳仲子が母の長寿を祝うために贈った百金は受け取らなかったが、厳仲子があのようにしたのは政をよく理解しているからだ。賢者が怨みに報いるため自ら窮僻の人(僻地の貧者)と親しくしたのに、私が黙っていていいはずがない。それに、以前私を必要とした時は、私は老母を理由に断った。しかし老母は既に天年(天寿)を終えた。私は己を知る者に用いられるべきだ。」
こうして聶政は西の濮陽(衛地)に向かいました。
 
聶政が厳仲子に会って言いました「以前、仲子の要求を辞退したのは親がいたからです。しかし今、不幸にも母は天年を終えました。仲子が仇に報いようとしている相手は誰でしょうか?仲子の事に携わらせてください。」
厳仲子が言いました「臣が仇としているのは韓相の俠累です。俠累は韓君の季父(叔父)にあたり、宗族が盛んです。至る所に兵を置いて警備しているので、人を送って刺殺したくても手が出せません。今回、幸いにも足下に来ていただけました。車騎壮士を増やして足下の輔翼(補佐)とさせてください。」
聶政が言いました「韓と衛(濮陽)は遠くありません。今から人の相を殺しに行きますが、その相は国君の親族です。こちらの人を増やすべきではありません。人が多ければ得失が生まれ(原文「不能無生得失。」人が多ければ異なる考えも生まれやすくなる、または暗殺に成功しても捕まる者が出て首謀者が露見してしまうという意味)、得失が生まれれば語(計画)が漏れ、語が漏れれば韓は国を挙げて仲子を仇讎とみなすことになるので、危険すぎます。」
聶政は一人で韓に向かいました。
 
剣を手にした聶政が韓に入ります。韓相・俠累は官府に座っていました。刀や戟を持った多数の衛侍が守っています。しかし聶政は躊躇することなく官府に直進し、階段を登って俠累を刺しました。『戦国策』は韓傀(俠累)が逃げて哀侯を抱きかかえたため、哀侯も一緒に殺されたとしています。
俠累が殺されて周りの者達が混乱に陥る中、聶政は大声を挙げながら数十人を殺しました。その後、自分の刀で顔の皮を剥ぎ、目をくりぬき、腹を裂いて腸を出しました。聶政の息が絶えます。
 
韓は聶政の死体を市に晒し、刺客の身元を報せた者に千金の褒賞を与えると宣言しました。
しかし久しくしても刺客の身元を知る者はいませんでした。
 
聶政には榮という姉がいました。姉は事件を知り、身元が分からない死体が晒されていると聞いて、「それは私の弟ではありませんか。厳仲子は弟のことをよく理解していたようです」と言いました。
姉はすぐ韓国に入って市に向かいます。
果たして、死体は弟のものでした。姉は死体に伏せて哀哭し、こう言いました「これは軹邑・深井里の聶政です。」
市にいた人々が言いました「彼は我が国の相に暴虐を行った。王(この時、韓侯はまだ王位に即いていませんが、原文のままにしておきます)は千金を懸けて姓名を知ろうとしている。夫人はそれを知らないのか?なぜ敢えて名乗り出たのだ?」
姉が言いました「そのことは知っています。政が自ら辱めを受けて自分の身を市販(市井)の中に置いていたのは、老母が健在で妾(私)がまだ嫁いでいなかったからです。しかし既に親は天年によって世を去り、妾も夫に嫁ぎました。厳仲子が困汚(賎しい環境)の中で私の弟を探し出し、交わりを結んで厚く遇したので、弟には他に選択がありませんでした。士は己を知る者のために死ぬものです(士固為知己者死)。しかし妾がいるので、自ら刑を重くして死に(顔の皮を剥いで目をくりぬいてから死んだこと。顔をわからなくするためです)、他の者に追及が及ばないようにしたのです。しかし妾には、自分の身を誅されることを恐れて賢弟の名を埋没させるようなことはできません。」
姉の言葉は市の人々を驚かせました。
姉は天に向かって三回叫ぶと、悲哀が過ぎて聶政の横で死にました。
 
この事件は晋、楚、斉、衛にも伝わり、人々はこう評価しました「聶政だけが優れていたのではない。その姉も烈女だ。もしも聶政が姉のことをよく理解しており、姉が濡忍(耐え忍ぶこと)の志(意思)をもたず、屍を曝す苦難を避けることもなく、千里の険を越えてでもその名を明らかにし、姉と弟が一緒に死ぬことになると知っていたら、厳仲子に身を委ねようとはしなかっただろう。厳仲子も人を知り、士を得ることができたといえる。」
 
資治通鑑』はこの事件に関して『史記』『戦国策』と異なる解釈をしています。