戦国時代27 東周安王(三) 魏武侯と呉起 前387年

今回は東周安王十五年です。
 
安王十五年
387年 甲午
 
[] 秦が蜀を攻めて南鄭(東周貞定王二十八年・441年参照)を取りました。
これは『資治通鑑』『史記・秦本紀』の記述です。『史記・六国年表』には「蜀が秦の南鄭を取る」とありますが、恐らく誤りです。
 
資治通鑑』胡三省注が蜀について書いています。蜀人の祖は人皇(伝説の帝王)の時代から始まったといわれています。後に黄帝の子・昌意が蜀山氏の女を娶って帝俈(嚳)を産みました。俈は即位してから支庶(嫡子以外の子)を蜀に封じました。その子孫が虞舜から夏・商・周の三代にわたって蜀を治めます。
西周が衰えた頃、蠶叢という者が王を称しました。
 
[] 『史記・魏世家』によると、この年、魏が秦を攻撃しましたが、武下(魏地)で敗れました。しかし魏は秦の将・識を捕えました。
 
[] 魏文侯が死にました。
史記』の『魏世家』『六国年表』および『資治通鑑』は文侯の在位年数を三十八年としていますが、『竹書紀年』(今本・古本)は文侯の在位年数を五十年と書いています。また、『今本』は『資治通鑑』や『史記』と同じく文侯の死を本年に書いていますが、『古本』は十年前の事としています(年表および東周安王五年・前397年参照)
 
文侯の世子(太子)・撃が立ちました。これを武侯といいます。
 
[] 『資治通鑑』が魏武侯と呉起に関する故事を書いています。
魏武侯が舟に乗って西河を下りました。河の中腹で武侯が呉起に言いました「この山河による堅固な守りは素晴らしい。まさに魏国の宝だ。」
しかし呉起はこう言いました「大切なのは徳です。険(険阻な地形)ではありません。昔、三苗氏の左には洞庭があり、右には彭蠡がありましたが(どちらも大きな湖)、徳義を治めなかったため禹夏王朝最初の王)によって滅ぼされました。夏桀夏王朝最後の王)が住んでいた場所(安邑)は、左に河・済黄河と済水)があり、右に泰・華(泰山と華山)があり、南には伊闕、北には羊腸(羊腸阪)がありましたが、政を治めず不仁だったため、湯商王朝最初の王。成湯)に放逐されました。商紂商王朝最後の王)の国(朝歌)は、左に孟門があり、右に太行(太行山)があり、北には常山があり、大河黄河が南を流れていましたが、政を治めず不徳だったため、武王西周に殺されました。このように観ると、大切なのは徳であり、険ではないことが分かります。主公がもし徳を修めなかったら、舟中の人が全て敵国の人になるでしょう。」
武侯は納得して「その通りだ(善)」と言いました。
 
魏が田文を相に任命しました。
これに不満だった呉起が田文に言いました「子(あなた)と論功(功績を較べること)させてください。」
田文が同意したので、呉起が言いました「三軍の将となり、士卒を喜んで死に向かわせ、敵国に謀をさせないという点において、子と起(私)を較べたら如何でしょう?」
田文は「私は子に及びません」と答えました。
呉起が続けました「百官を治め、万民を親しませ、府庫を充実させるという点において、子と起を較べたら如何でしょう?」
田文は「私は子に及びません」と答えました。
呉起が更に問いました「西河を守って秦兵の東進をあきらめさせ、韓、趙を従わせたという点において、子と起を較べたら如何でしょう?」
田文は「私は子に及びません」と答えました。
そこで呉起が言いました「この三者において子は全て私の下であるのに、位が私の上にいるのは何故でしょう。」
すると田文はこう言いました「主公はまだ若く、国に疑心が多いので、大臣はまだ心服せず、百姓も信用していません。このような時、国を子に委ねるべきでしょうか。私に委ねるべきでしょうか。」
呉起は暫く黙ってから「子に委ねるべきだ」と言いました。
 
資治通鑑』はここで呉起の出奔について書いています。『史記孫子呉子列伝(巻六十五)』が元になっています。以下、『資治通鑑』と『史記』の注を交えて紹介します。
田文の死後(詳しい時間は分かりません)、公叔が魏の相になりました。公叔は韓国の公族のようです。
公叔は魏の公主(国君の娘)を娶りました。
公叔は能力がある呉起を脅威に思い、排斥する方法を考えました。すると公叔の僕が言いました「起呉起を除くのは容易なことです。起は剛勁自喜(剛直で自信があること)な人物です。子(あなた)はまず国君に『呉起は賢人ですが、主公の国は小さいので、恐らくここに留まる気はないでしょうか。試しに公主を嫁がせるべきです。起に留まるつもりがなければ必ず辞退します』と話してください。それから起を連れて家に帰り、公主に子(あなた)を辱めさせれば、起は公主が子を軽視している様子を見て必ず公主との婚姻を辞退します。これで子の計が成功できます。」
公叔はこれに従いました。
後日、魏武公が呉起に公主を娶らせようとしました。呉起は公叔の家で公主の傲慢な姿を目の当たりにしたため、婚姻を辞退します。魏武侯は呉起を疑うようになりました。
呉起は危険を察して楚に奔りました。
 
楚悼王はかねてから呉起の賢才を聞いていたため、相に任命しました。
呉起は法令を明確にし、不急の官(必要ない官員)を削減し、公族(王族)でも王と関係が疏遠な者なら官爵を廃しました。戦闘の士を養って強兵に力を入れます。
当時、従横家の遊説が登場し始めていました。従横とは「合従連衡」の略です。合従は縦に同盟することで、韓・魏・趙等と結んで西方で強大化する秦に対抗する方法です。連衡は横に同盟することで、西の秦と結んで東方の諸国に対抗する方法です。
楚にも縦横家が訪れて合従や連衡を誘いましたが、呉起は従横家の遊説を論破していきました。南は百越を平定し、北は三晋(韓・魏・趙)を退け、西は秦を討伐します。諸侯は楚の強盛を恐れました。
しかし呉起の改革によって官爵を失った楚の貴戚(貴族・公族)や大臣の多くが呉起を怨むようになりました。
 
[] 秦恵公が死に、子の出公(出子)が立ちました。
 
[] 趙武侯が在位十三年で死にました。
趙の国人は烈侯(武公の兄。東周安王二年・400年参照の太子・章を立てました。これを敬侯といいます。
 
[] 韓烈侯が在位十三年で死に、子の文侯が立ちました
 
史記・韓世家』と『資治通鑑』では景侯・虔→烈侯・取→文侯としていますが、『世本』では景子(景侯)・虔→武侯・取→文侯となっています。文侯の名はわかりません。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、晋(恐らく魏)で大風が吹き、昼なのに夜のように暗くなりました。
また、『今本竹書紀年』には「晋の太子・喜が出奔した」とも書かれていますが、詳細は分かりません。
 
 
 
次回に続きます。