戦国時代28 東周安王(四) 呉起の死 前386~380年

今回は東周安王十六年から二十二年までです。
 
安王十六年
386年 乙未
 
[] 周安王が斉の大夫・田和に命を下して諸侯にしました。
斉国は姜姓の斉(姜斉)と田氏の斉(田斉)が併存することになります。田和は田斉の太公とよばれます。
 
史記・斉太公世家』はこの時、田和が斉(姜斉)康公を海浜に遷したとしています(東周安王十一年・前391年参照)
 
[] 趙の公子・朝(武侯の子)が乱を起こして魏に奔りました。
公子・朝は魏と共に邯鄲(趙)を襲いましたが、勝てませんでした。
 
これは『資治通鑑』の記述です。
史記・晋世家』はこの戦いを晋孝公九年の事としていますが、恐らく七年の誤りです。
史記・趙世家』にはこの年に趙が初めて邯鄲を都にするとあります。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年(魏武侯元年)に「公子緩を封ず」とあります。公子緩は魏武侯の子ですが、どこに封じられたのかわかりません。
『古本竹書紀年』は魏恵王元年(東周烈王六年・前370年)の事としています。再述します。
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に「魏が洛陽(または「洛陰」)、安邑、王垣に築城した」と書いています。翌年、再述します。
 
 
 
翌年は東周安王十七年です。
 
安王十七年
385年 丙申
 
[] 東周威烈王十一年(前415年)に秦霊公が死んで季父(叔父)の悼子が即位しました。これを簡公といいます。その後、簡公が死んで恵公が即位し、二年前に恵公が死んで子の出子(出公)が即位しました。
 
この年、秦の庶長爵位・改が河西で霊公の太子にあたる師隰を迎え入れて擁立し、出子とその母を殺して淵に棄てました。出子の在位年数は二年です。
即位した師隰は献公といいます。
 
秦君の系図をまとめるとこうなります。
懐公①→昭子(早逝)霊公②→献公
簡公(昭子の弟)③→恵公④→出子
 
史記・秦本紀』によると、当時の秦はしばしば国君を換えており、君臣の秩序が乱れていました。その間に再び晋(三晋)が強盛になり、秦から河西の地を奪いました。
 
資治通鑑』胡三省注が秦の爵位を紹介しています。一級は公士、二級は上造、三級は簪(または「簪裊」)、四級は不更、五級は大夫、六級は官大夫、七級は公大夫、八級は公乗、九級は五大夫、十級は左庶長、十一級は右庶長、十二級は左更、十三級は中更、十四級は右更、十五級は少上造、十六級は大上造、十七級は駟車庶長、十八級は大庶長、十九級は関内侯、二十級は徹侯といいます。
 
[] 斉が魯を攻めました。
資治通鑑』の記述はこれだけですが、『史記・六国年表』では「斉が魯を攻めて破った」としています。
 
[] 韓が鄭を攻めて陽城を取りました。
また宋を攻めて彭城に至り、宋公を捕えました。当時の宋の国君は休公です。
 
この事件は『資治通鑑』および『史記』の『六国年表』『韓世家』に記述がありますが、『宋微子世家』にはありません。宋休公は東周烈王三年(前373年)に死ぬので、韓に捕えられたもののすぐに釈放されたようです。
 
[] 田斉の太公(田和)が死に、子の桓公・午が立ちました。
これは『史記』と『資治通鑑』の記述です。
『古本竹書紀年』は「斉(姜斉)康公二十二年、田侯・剡が立つ」と書いています。『古本竹書紀年輯校訂補』は「二十二年」を「二十一年」の誤りとしています。斉康公二十一年は東周安王十八年(前384年。翌年)にあたります。
史記』と『資治通鑑』では太公・田和の跡を桓公・田午が継いでいますが、『古本竹書紀年』では間に田侯・剡がいます。田侯・剡が田和の子なのか弟なのか全く他の関係なのかはわかりません。
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙が霊丘で斉を破りました。
 
[] 『史記・魏世家』によると、魏が安邑と王垣に築城しました。
『今本竹書紀年』は東周安王二十六年(前376年)に「魏が洛陽(または「洛陰」)、安邑、王垣に築城した」と書いています。『古本竹書紀年』は東周安王十六年(前386年)の事としています。
 
 
 
翌年は東周安王十八年です。
 
安王十八年
384年 丁酉
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙が廩丘で魏を援けて斉に大勝しました。
 
[] 『史記・秦本紀』のよると、即位したばかりの秦献公が従死(殉葬)を禁止しました。
 
 
 
翌年は東周安王十九年です。
 
安王十九年
383年 戊戍
 
[] 魏が兔台(または「菟台」)で趙軍を破りました。
楊寛の『戦国史』は趙が衛を攻めたため、魏が衛を援けて趙を破ったとしています。
 
史記・趙世家』によると、趙が衛攻撃の拠点として剛平に築城しました。
 
[] 『史記・秦本紀』によると、秦が櫟陽に築城しました。
『集解』は「櫟陽を都にした」と注釈しています。しかし東周烈王二年(前374年)に秦献王が櫟に県を置いたという記述があるので(『魏世家』『六国年表』)、恐らく秦の都になったのはもっと後のことです。
 
 
 
翌年は東周安王二十年です。
 
安王二十年
382年 己亥
 
[] 皆既日食がありました。
 
[] 『史記・趙世家』によると、斉と魏が衛のために趙を攻め、剛平(前年参照)を取りました。
 
 
 
翌年は東周安王二十一年です。
 
安王二十一年
381年 庚子
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年正月庚寅、秦献公の子・渠梁が産まれました。渠梁は後に孝公となる人物です。
 
[] 楚悼王が在位二十一年で死にました
 
悼王が死んだため、改革を進めていた呉起の後ろ盾がいなくなります。
改革によって官職を失った貴戚(貴族・公族)や大臣が乱を起こして呉起を攻めました。
呉起は走って乱から逃げ、悼王の死体の上に伏せました。
乱を起こした者達は呉起に向けて矢を放ちます。呉起は死にましたが、多数の矢が王の死体にも刺さりました。
 
悼王の葬儀が終わって子の臧が立ちました。これを粛王といいます。
粛王は令尹に命じて乱を起こした者達を誅滅しました。夷宗(同族を皆殺しにすること)の者は七十余家に上りました。
 
呉起の変法改革は楚を一時的に強大国にしましたが、旧体制派の反動が強かったため、呉起の死と共に改革も頓挫しました。楚は後に変法改革を成功させる秦にかなわなくなります。
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙が楚に兵を借りて魏を討ち、棘蒲を取りました。
 
[] 『今本竹書紀年』は本年に韓が鄭を滅ぼし、韓哀侯が鄭に入ったとしています。しかし「東周安王二十一年(本年)」ではなく「魏武侯二十一年」の誤りで、東周安王二十六年(前376年)の事となります。
 
 
 
翌年は東周安王二十二年です。
 
安王二十二年
380年 辛丑
 
[] 斉が燕を攻めて桑丘(燕の南界)を取りました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。『史記・田敬仲完世家』に詳しく書かれています。
まず秦と魏が韓を攻めました。韓は斉に救援を求めます。
桓公は大臣を招いてこう問いました「早く援けに行くべきか、晩く援けに行くべきか?」
騶忌が言いました「いっそ援けに行かないべきです。」
段干朋(または「段干綸」)が反対して言いました「援けなければ韓が魏に吸収されてしまいます。援けるべきです。」
すると田臣思(または「田期思」「徐州子期」「田忌」)が言いました「それは違います。秦と魏が韓を攻撃したら、楚と趙が必ず援けに行きます。これは天が燕を斉に与えようとしているのです。」
桓公は納得して「善し」と言いました。
斉は韓の使者に救援を約束して帰らせましたが、実際に兵を出そうとはしません。
韓は斉の援軍が来ると思い、秦・魏両軍と戦います。それを知った楚と趙も兵を発して韓を援けました。
その隙に斉は兵を起こして燕国を襲い、桑丘を占領しました。
 
資治通鑑』によると、この後、魏、韓、趙が斉を攻めて桑丘に至りました。
これは『史記・韓世家』や『六国年表』等にも書かれていますが、『田敬仲完世家』にはありません。韓・趙が魏と共に斉を攻めるのは不自然なので、『田敬仲完世家』の記述(秦・魏と韓・趙・楚が戦っている間に斉が燕を攻めたという内容)に誤りがあるのかもしれません。
 
[] 『史記・六国年表』に「鄭が晋を破る(鄭敗晋)」とあり、『韓世家』には「鄭が晋に反す(鄭反晋)」とあります。この晋は韓を指すと思われます。鄭が韓を攻撃したようです。
 
 
 
次回に続きます。