戦国時代33 東周顕王(一) 東周と西周 前368~366年
今回から東周顕王の時代です。
顕王
東周烈王が死んで弟の扁が立ちました。顕王といいます。
顕王元年
前368年 癸丑
[一] 斉が魏を攻めて観津を取りました。
『史記・魏世家』も「斉が魏の観を破った」としており、『正義』が「観は古の観国で、夏王朝時代、太康(夏王・啓の子)の第五弟が封じられたが、夏王朝が衰退した時に滅ぼされた」と注釈しています(『魏世家』は本年の事としています)。
『田敬仲完世家』には、政治を始めたばかりの威王が兵を起こして西の趙や衛を討ち、魏を濁沢で破って恵王を包囲したため、魏恵王が観の地を譲って和解したとあります。
魏が濁沢で敗れて恵王が包囲された戦いは前年に書きましたが、韓・趙連合軍との戦いであり、斉は登場しませんでした。
また、『史記・田敬仲完世家』は「(斉が趙を討ったため)趙人が斉に長城を返還した(原文「趙人帰我長城」)」と書いていますが、『資治通鑑』『趙世家』『六国年表』は「趙が斉を侵して長城に至った」と書いています(下述)。
[二] 趙が斉を侵して長城に至りました。
これは『帝王世紀』にも記述があります。『帝王世紀』によると、趙成侯と韓哀侯が共に周を攻撃しました。
[四] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、秦子・向が藍君に封じられました(原文「秦子向命為藍君」)。
『古本竹書紀年輯校訂補』によると「魏恵王が秦子・向を藍田君にした(恵王命秦子向為藍田君)」という記述と「梁恵成王が太子・向を藍田君にした(梁恵成王命太子向為藍田君)」という記述が残されています(前者は『太平寰宇記・雍州藍田県』、後者は『長安志』からの引用)。
『古本竹書紀年輯校訂補』は「藍田は秦領なので、魏恵王が太子・向を藍田君(藍君)に封じるはずがない。『秦』は『泰』に近く、『泰』は『太』に通じるため、誤って『太子』と書いた」と解釈して後者の記述を否定しています。
秦子・向が誰を指すのかはわかりません。
[五] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、鄭が邢丘に築城しました。この鄭は韓を指します。
[六] 『史記・六国年表』に、「秦都・櫟陽で四月から八月にかけて金の雨が降った」と書かれています。翌年再述します。
翌年は東周顕王二年です。
顕王二年
前367年 甲寅
秦は西方に位置し、西の五行の金徳にあたります。金の瑞祥は秦が天下を統一する予兆かもしれません。
中国の人民解放軍出版社が編集した『中国歴代戦争年表』はこの出来事を「周で内乱が起こり、趙と韓がその機に周を攻め、周を二分した。谷城、緱氏と王城を西周と呼び、平陰、偃師、巩を東周と呼ぶ。周顕王は天子でありながら成周(河南洛陽)に住んで東周に属すようになった」と書いており、出典を雷学淇の『竹書紀年義証』としています(『竹書紀年義証』は手元にないため原文の確認ができていません)。
周王室が西周国を建てたことは東周考王十五年(前426年)に書きました。東周考王は弟の揭を河南に封じて周公の官職を継承させました。これを西周桓公といいます。桓公の子を西周威公といい、その子を西周恵公といいます。
『史記・周本紀』の本文および注(正義)によると、本年(東周顕王二年・前367年)、西周恵公が少子・班(『古本竹書紀年』では「傑」。東周顕王九年・前360年に見られます)を鞏に封じました。これを東周恵公といい(父は西周恵公です)、ここから周は東西に分かれます。
『周本紀』には周で内乱があったという記述はありません。
『帝王世紀』は「西周威公の後嗣を恵公という。顕王二年(本年)、恵公の少子・班を鞏に封じて王を奉じさせた。これを東周恵公という。こうして周が東西に分かれた。当時の周王は衰弱しており、政治は西周によって行われるようになった(政在西周)」と書いています。
翌年は東周顕王三年です。
顕王三年
前366年 乙卯
[一] 魏と韓が宅陽で会しました。
[三] 秦が魏軍、韓軍を洛陽で破りました。
[五] 『今本竹書紀年』によると、(魏の)公子・景賈が兵を率いて鄭(韓)を攻め、韓明が韓で戦いました。魏軍が敗退しました(原文「公子景賈帥師伐鄭,韓明戦于韓,我師敗逋」)。
『古本竹書紀年』にはこう書かれています「公子・景賈が兵を率いて鄭を攻め、韓明が陽で戦った。魏軍が敗退した(原文「公子景賈率師伐鄭,韓明戦於陽,我師敗逋」)」。
公子・景賈は魏将、韓明は韓将です。韓明は韓の公族で、「韓朋」「韓憑」「公仲朋」ともいいます。
『古本』は戦いがあった場所を「陽」としていますが、これは「濮陽」を指し、濮陽は韓の地にあったため、『今本』では「韓」としているようです。
次回に続きます。