戦国時代35 東周顕王(三) 秦孝公と公孫鞅 前361~360年
今回は東周顕王八年と九年です。
顕王八年
前361年 庚申
『魏世家』にも「彗星が現れた」という記述があります。
当時、河山以東(河は黄河。山は崤山一帯の山脈)には韓、魏、趙、斉、楚、燕という六つの強国があり(『史記・秦本紀』は「斉威王、楚宣王、魏恵王、燕悼公、韓哀侯、趙成侯」という名を挙げていますが、当時の各国の主が誰にあたるかは異なる説もあります)、淮水と泗水の間には宋、魯、鄒、滕、薛、郳等十余の小国がありました。これらの国は「泗上十二諸侯」ともいわれています。
楚と魏が秦と接しており、魏は鄭から洛水に沿って北の上郡に至るまで長城を築いていました。楚は漢中以南の巴(旧巴国)と黔中を領有しています。
周王室が衰弱したため、諸侯は政治に力を入れて領土拡大のために争っていました。
秦は中原から離れた辺鄙な雍州にあったため、各国が秦を文化が遅れた夷翟(夷狄)の国とみなして軽視していました。秦は中国(中原)の会盟に参加することもできません。
当時の秦と中原の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
孝公が国中に令を発しました「昔、我が穆公は岐山から雍の地の間で徳を修めて武を行い、東は晋の乱を平定して河(黄河)を界(国境)とし、西は戎翟に覇を称えて千里の地を拡げた。そのおかげで天子が伯(覇者)の任務を与えて諸侯が祝賀に来た。穆公が後世のために開いた業は甚だしく光美なものである。しかし後に厲公、躁公、簡公、出子の代になって安定を失い、国家は内憂のため外事を解決できなくなった。その結果、三晋(魏)によって我が先君が開いた河西の地を奪われ、諸侯が秦を卑下するようになった。これほど大きな醜(屈辱)はない。献公は卽位してから辺境を鎮撫して都を櫟陽に遷し、東伐を試みた。穆公の故地を奪還し、穆公の政令を修復するためである。寡人は先君(献公)の意志を思うと常に心が痛くなる。賓客群臣の中で秦を強国にする奇計を出す者がいたら、尊官に任じて封土を分け与えよう。」
この布告を知った衛の公孫鞅が西の秦に向かいました。
『資治通鑑』から公孫鞅について書きます。
公孫鞅はかつて魏の相・公叔痤に仕えていました。公叔痤は公孫鞅の賢才を理解していましたが、まだ国君に推挙していません。
公叔痤が病に倒れた時、魏恵王が公叔痤を訪ねてこう聞きました「公叔が病のために死から避けられなくなったら、社稷をどうすればいい?」
恵王が何も言わないため、公叔痤が続けて言いました「主公が衛鞅を用いないのなら、必ず殺すべきです。国から出してはなりません。」
恵王は同意して去りました。
公叔痤が衛鞅を召して言いました「わしにとって、先に国君がおり、その後に臣下がいる。だからまず国君のために謀り、それから子(汝)に伝えることにした。子は速やかに去れ。」
しかし衛鞅はこう言いました「国君が子(あなた)の言を聞いて臣を任用することがないのなら、子の言を用いて臣を殺すこともありません(国君があなたの言に従うのなら私を用います。私を用いないのなら、あなたの言に従うつもりがないので、私が殺されることもありません)。」
衛鞅は魏にとどまりました。
一方、退出した恵王は左右の者にこう言いました「公叔の病は重い。悲しいことだ。寡人に国を挙げて衛鞅に従わせようとしながら、更に寡人に彼を殺すよう要求するとは、おかしなことではないか(豈不悖哉)。」
前年に公孫痤という人物が魏に捕えられています。公孫痤と公叔痤が同一人物かどうかははっきりしません。同一人物だとしたら、公叔痤は魏で病死しているので、捕虜になってから釈放されたようです。
衛鞅の富国強兵の術を聞いた孝公は大喜びして国事に参与させることにしました。
『秦本紀』『韓世家』には記述がありません。
[五] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、魏が河水を圃田(甫田)に入れ、大溝の水を圃水(甫水)に入れました。
[六] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、瑕陽人が秦を通って岷山に入り、青衣水を利用して魏に帰りました。瑕陽は魏の地名で、岷山は秦の西南に位置する山です。魏と秦の間は水路による交通が発展していたようです。
楊寛の『戦国史』は瑕陽人が秦の岷山から青衣水を開き、東の沫水に繋げたと解説しています。
戦国時代は灌漑や交通・輸送のため、各地で水利工程が行われました。
[七] 『竹書紀年』(古本)によると、東周恵公・傑が死にました(翌年再述)。
翌年は東周顕王九年です。
顕王九年
前360年 辛酉
『魏世家』『田敬仲完世家』には記述がありません。
[二] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、秦が鄭を攻めて懐に駐軍し、殷に城を築きました。
『秦本紀』および『六国年表』にもほぼ同じ記述がありますが、『資治通鑑』には書かれていません。
[四] 『史記・六国年表』の注(集解)に「東周恵公・傑が死んだ」とあります。これは『古本竹書紀年』の記述の引用で、前年にも書きました。『古本竹書紀年』は事件が起きた年が明確ではないことが多いため、解釈によってずれが生まれることがあります。
次回に続きます。