戦国時代37 東周顕王(五) 鄒忌と淳于髠 前358~356年

今回は東周顕王十一年から十三年です。
 
顕王十一年
癸亥 前358
 
[] 秦が西山(韓領)で韓を破りました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、鄭(韓)釐侯(昭侯)が許息を派遣して魏に土地を贈りました。平邱、戸牖、首垣の諸邑と鄭の馳地(馳道。車馬が通る大通り)が魏に譲られます。
魏が枳道を取り、鄭(韓)に鹿(地名)を譲りました。
また、魏恵王(恵成王)と鄭釐侯が巫沙で盟を結び、宅陽の包囲を解いて釐を鄭に還しました。
 
『竹書紀年』は記述が簡単なので詳しい内容がよくわかりません。
あるいは、魏が韓を攻めて釐を占領し、更に宅陽を包囲したため、韓が領地(平邱、戸牖、首垣と馳地)を魏に譲ることを条件に講和したとも考えられます。会盟の結果、魏は釐を返還して宅陽から撤兵し、その代わりに上述の地および枳道を取ったのかもしれません。
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、趙成侯と魏恵王が葛孼で会いました。『魏世家』には記述がありません。
 
[四] 『史記六国年表』はこの年に「鄒忌が琴によって斉威王に謁見する」と書いています。詳細は『田敬仲完世家』に書かれています。
騶忌子(鄒忌)が威王に謁見して琴を披露すると、音楽が好きな威王は喜んで騶忌子を右室に住ませました。
暫くして威王が琴を弾き始めると、騶忌子が戸を押して部屋に入り、すぐに「素晴らしい琴の演奏です(善哉鼓琴)」と言いました。
威王は突然不快になり、琴を退けて剣を手にするとこう言いました「夫子(あなた)はまだ演奏を詳しく聞いていないのに、なぜ素晴らしいとわかったのだ?」
騶忌子が答えました「大弦の音が濁(低くて重い音。またはゆっくりした音)なのは春温(寛大で暖かいこと)であり、国君を象徴します。小弦の音が廉折(高くてはっきりしている音)なのは清(清廉)であり、相(臣下)を象徴します。攫(指で弦を押さえて弾くこと)が深く、醳(弦から指を離すこと)が愉(緩やか)なのは(弦を操る指の強弱、緩急の変化が適切なのは)政令を象徴します。均衡がとれた音が鳴り、音の大小が影響しあって調和し、回邪(正しくないこと。ここでは恐らく複雑に変化する音)でありながら互いに害さないのは、四時(四季)を象徴します。これらのことから王の演奏が素晴らしいとわかったのです。」
威王は「汝は音(音楽)について善く語ることができる」と言いました。
すると騶忌子はこう言いました「音について語るだけではありません。国家を治めて人民を養う方法も全てこの中にあります。」
威王はまた不快になり、こう言いました「五音の紀(規則。道理)を語るのなら、夫子に優る者はいないだろう。しかし国家を治めて人民を養うことがどうして絲桐の間(琴の中)にあるのだ?」
騶忌子が言いました「大弦の濁は春温であり、国君を象徴します。小弦の廉折は清であり、相を象徴します。演奏の緩急は政令を象徴します。均衡がとれた音が鳴り、大小の音が互いに影響し、回邪であっても害すことがない様子は四時を象徴します。繰り返しても乱れないのは政治が昌(盛んで明らかなこと)だからです。連なっても徑(軽快)なのは存亡(滅亡に瀕しても存続できること)だからです。だから琴音が調和していれば天下が治まるのです。国家を治めて人民を養う道理とは、五音ほど似通ったものがありません。」
威王は「善」と言って納得しました。
 
騶忌子は威王に謁見して三カ月で相印を拝受することになりました。
淳于髠が騶忌子に会って言いました「あなたは弁舌に長けています(善説哉)。髠(私)に愚志(つまらない考え)があり、あなたの前で述べたいと思いますがいかがでしょうか。」
騶忌子は「謹んで教えを受けます」と言いました。
そこで淳于髠が言いました「人臣として国君に仕えて全く過失がなければ、その身も名声も栄誉を受けることができます(得全全昌)。逆に礼を失って過ちを犯したら、身も名も失うことになります(失全全亡)。」
騶忌子が言いました「謹んで令(教え)を受け入れ、心目の前から離すことがありません(忠告を忘れることはありません)。」
淳于髠が言いました「(豚の脂)を棘の木で作った車軸に塗るのは滑りやすくするためです。しかし軸穴が四角かったら、車軸は回転できません。」
騶忌子が言いました「謹んで令を受け入れ、国君の左右に仕えます(滑らかに回転する車輪のように従順な態度で国君に仕えます)。」
淳于髠が言いました「弓に膠を塗るのは古くなった弓幹の傷を埋めるためですが、いつまでもそれだけで直せるわけではありません(漆を塗れば弓の傷を埋めることができますが、長い時間が経てばそれだけでは直せなくなります。これは「古い礼制や規則に拘泥しているだけでは自分の短所を治すことができないから、広く人々の声を取り入れなければならない」という意味です)。」
騶忌子が言いました「謹んで令を受け入れ、自らを万民の中に属させます。」
淳于髠が言いました「狐裘(狐の毛皮で作った高級な服)が破れても、黄狗の皮(安い犬の皮)で補ってはなりません。」
騶忌子が言いました「謹んで令を受け入れ、慎重に君子を選びます。小人をその中に紛れ込ませることはありません。」
淳于髠が言いました「大車の性能を量らなければ、常任(正常な任務。ここでは正しい貨物の量)を載せることができず、琴瑟を校正しなければ、正しい五音を成すことができません。」
騶忌子が言いました「謹んで令を受け入れ、慎重に法律を修めて姦吏を監督します。」
言い終わった淳于髠は小走りで退出しました。貴人の前で小走りになるのは当時の礼です。
門まで来た時、淳于髠が僕(従者)に言いました「あの人物は、私が語った五つの微言(隠語)に対して響くように応答した。間もなく必ず封じられるだろう。」
一年後、鄒忌は下邳に封じられ、成侯と号しました。
 
 
 
翌年は東周顕王十二年です。
 
顕王十二年
357年 甲子
 
[] 魏と韓(または「趙」。『資治通鑑』胡三省注)が鄗(趙地)で会しました。
 
[] 『史記韓世家』によると、宋が韓の黄池を取り、魏が韓の朱を取りました。
 
[] 『史記六国年表』によると、この年、斉が鄒忌を下邳に封じました。鄒忌は成侯と号します(前年参照)
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魯恭侯(共公)、宋桓侯(『史記』では剔成の時代です)、衛成侯、鄭釐侯(韓昭侯)が魏に来朝しました。
史記魏世家』は翌年に書いています。


[
] 『竹書紀年』(今本古本)によると、於越子(越子。越王)無顓が死にました。無顓は菼蠋卯ともいいます。

無彊が即位しました。越国最後の王になります。
『古本竹書紀年輯校訂補』は無顓の死を二年後の事としています。
 
[] 『古本竹書紀年』に「斉幽公の在位は十八年で、威王が立つ」とあります。『古本竹書紀年輯校訂補』は、「幽公」は「桓公」の誤りで、「十八年」は「十九年」の誤りと解説しており、本年を斉桓公十九年、翌年を威王元年としています桓公の在位年数を十八年として本年を威王元年とする説もあります)
斉威王が即位した年は『竹書紀年』『資治通鑑』『史記』それぞれ異なります(年表参照)
 
[] 『史記六国年表』に「趙孟(恐らく趙国の主)が斉に入る」とありますが、詳細は不明です。
 
[] 『史記六国年表』に「楚の君尹黒が秦女を迎える」とあります。楚王が秦女を娶ったようです。「君尹黒」というのは、「右尹黒」の誤りのようです。「黒」は人名です。
 
 
 
翌年は東周顕王十三年です。
 
顕王十三年
356年 乙丑
 
[] 趙と燕が阿(地名)で会しました。
これは『史記趙世家』『六国年表』および『資治通鑑』の記述です。
 
『竹書紀年』(今本古本)には「邯鄲(趙)成侯と燕成侯が安邑で会した」とあります。
史記』では、この時の燕君は文公です。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、魯共侯(共公)が魏に来朝しました。
 
[] 趙、斉、宋が平陸で会しました。
 
[] 『史記魏世家』によると、魯、衛、宋、鄭(韓)の国君が魏に来朝しました。『竹書紀年』は前年に書いています。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、魏が将龍賈を派遣して陽池に城を築き、秦に備えました。
(韓)も亥谷以南に長城を築きました。
 
 
 
次回に続きます。