戦国時代39 東周顕王(七) 桂陵の戦い 前353年

今回は東周顕王十六年です。
 
顕王十六年
戊辰 前353
 
[] 斉威王が田忌を派遣して趙を援けさせました(前年から魏が邯鄲を包囲しています)
 
かつて孫臏という者が龐涓と共に兵法を学びました。
資治通鑑』胡三省注はここで孫氏と龐氏の紹介をしています。周文王の子康叔が衛に封じられ、衛武公の子恵の孫にあたる曾耳が衛の上卿になりました。曾耳が孫を氏とします。その子孫に孫武孫臏がおり、どちらも兵法に通じていました。もしくは、孫氏は殷(商)の後裔にあたり、西周武王が商王朝を滅ぼして周王朝を建てた時、賢人比干の墓を封じて子孫を分居させました。それが孫氏の祖にあたります。
龐姓は畢公高の子孫で、支庶が龐に封じられたため、それを氏にしました。
なお、孫臏の臏は刖刑(脚を切断する刑)を意味します。
 
龐涓は魏に仕えて将軍になりました。しかし自分の能力が孫臏に及ばないことを知っています。そこで孫臏を魏に招き、法を利用して孫臏に罪を着せました。孫臏の両脚を切断して黥刑(顔に入墨する刑)に処します。孫臏を受刑した廃人にして出仕できなくさせるためです。
後に斉の使者が魏に来ました。孫臏は刑徒(受刑者)という身分で秘かに使者と会って話をします。使者は孫臏の賢才に気づき、車に隠して斉に連れて帰りました。
その結果、斉の田忌が孫臏を気に入って賓客として遇し、威王に推挙しました。
威王は孫臏に兵法を問い、自分の師として尊重します。
 
魏が趙の邯鄲を包囲すると、斉威王は趙を援けるために出兵を決意しました。
威王は孫臏を将に任命しようとしましたが、孫臏は「臣は刑余の人です」と言って辞退しました。そこで田忌が将に任命され、孫子は師として輜車(屋根がある車。本来は輜重を運ぶ車)の中で計謀を練ることになりました。
 
田忌が兵を率いて趙に向かおうとすると、孫子孫臏が言いました「雑乱とした紛糾を解決する時は、拳を振り上げるべきではありません(夫解雑乱紛糾者不控拳)。争いを止める時は、直接手を出すべきではありません(救闘者不搏。相手の虚に乗じて要所を攻めるべきです(批亢擣虛)。形勢に変化が現れて進行が妨げられたら、事態は自ずから解決します。今、梁(魏)は趙と争っており、軽兵鋭卒は全て国外にいます。国内に残っているのは疲弊した老弱の者だけです。子(あなた)が兵を率いて魏都に疾駆し、街路を占拠して敵の虚を衝けば、梁は必ず趙の包囲を解いて自国を守りに行きます。これが一挙によって趙の包囲を解き、魏を疲労させる計です。」
田忌はこれに従いました。
 
十月、趙の邯鄲が魏に降りました。
魏は自国を救うために兵を還します。しかし桂陵で斉軍と戦って大敗しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述で、『史記孫子呉起列伝(巻六十五)』が元になっています。『史記田敬仲完世家』には孫子が登場せず、若干異なる内容になっています。以下、『田敬仲完世家』からです。
魏恵王が趙の邯鄲を包囲したため、趙が斉に救援を求めました。
斉威王が大臣を集めて問いました「趙を救うべきか、救わないべきか?」
騶忌子(鄒忌)が言いました「救うべきではありません。」
段干朋が反対して言いました「救わなければ不義であり、しかも不利になります。」
威王がその理由を問うと、段干朋が言いました「魏氏が邯鄲を併合したら、斉にとってなぜ利があるのでしょう。しかしもし趙を援けるために郊外に駐軍したら、趙が魏と戦う必要がなくなり、魏にも損傷がありません。そこで我が軍は(邯鄲を援けず)南の襄陵(魏領)を攻め、(魏に継続して邯鄲を攻めさせて)魏を疲労させるべきです。その間に邯鄲が攻略されたとしても、我が軍は疲労した魏に乗じることができます。」
威王は納得しました。
 
暫くして、成侯騶忌と田忌の関係が悪化しました。
公孫閲(または「公孫閎」)が成侯忌に言いました「公はなぜ魏討伐を計画しないのですか。そうすれば田忌が必ず将になります。(田忌が)戦に勝って功を立てたとしても、(魏討伐を主張した)公の謀によるものです。もし戦に勝てなければ、(田忌は)進んでも死に、退いても敗北することになるので、その命は公の掌中にあります。」
納得した成侯は威王に進言し、田忌に襄陵を攻撃させました。
 
十月、魏が邯鄲を攻略しました。
それを見て斉が魏軍を攻撃し、桂陵で大勝しました。
この戦いで斉は諸侯の中で最も強い国となり、自ら王を称して天下に号令を出すようになりました(『資治通鑑』は東周顕王三十五年334年に斉が王を称したとしています。再述します)

桂陵の戦いの地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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『竹書紀年』における桂陵の戦いの記述は『史記』『資治通鑑』と大きく異なります。前年にも書きましたが、『今本竹書紀年』を中心に改めて紹介します。
東周顕王十五年(前年)、斉の田期(田忌)が魏の東鄙を攻め、桂陽で戦いました。魏軍が大敗します。
宋の景●(「善」の右に「攴」)と衛の公孫倉が斉と兵を合わせて魏の襄陵を包囲しました(『史記』は魏が趙を攻めたため、斉が襄陵を攻めたとしています)
東周顕王十六年(本年)、魏王が韓軍を率いて襄陵で諸侯の軍を破りました。
斉侯は楚の景舍(前年参照)を派遣して魏に講和を求めました。『今本』にはありませんが、『古本』には「公(魏王)が襄陵を包囲する斉宋と会した」とあります。
この後、邯鄲の師(趙軍)が魏軍を桂陵で破りました。
 
以上が『竹書紀年』の記述です。『史記』は桂陵の戦いを斉と魏の戦いとしていますが、『竹書紀年』は桂陽の戦いが斉と魏の戦いで、桂陵の戦いは趙と魏の戦いとしています。
 
[] 韓が東周を攻めて陵観と廩丘(または「邢丘」)を取りました。
この東周は周考王が西周桓公の孫恵公を鞏に封じてできた国です。
 
[] 楚で昭奚恤が相になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、楚の昭、屈、景の三氏は強族で、「三閭」とよばれていました。
 
江乙(『資治通鑑』胡三省注によると嬴姓)が楚王に言いました「ある人が狗(犬)を可愛がっていました。ある日、その狗が井戸に小便をしました。それを見た隣人が狗の主人に伝えようとしましたが、門に入った時、狗が噛みつきました。今、昭奚恤は臣(私)が王に謁見することを嫌っており、その様子は門前の狗と同じです。また、誰かが他者の善を称揚したら、王は『彼は君子だ』と言って近づけ、誰かが他者の悪を明らかにしたら、王は『彼は小人だ』と言って遠ざけています。これでは子が父を弑殺し、臣下が主を弑殺しても、王はそれを知ることができません。なぜなら、王は人の美を聞くことを好み、人の悪を聞くことを嫌っているからです。」
楚王が言いました「わかった(善)。寡人は両方を聞くようにしよう。」
 
これはもともと『戦国策楚策一』に見える話です。以下、『戦国策』からです。
江乙は昭奚恤を嫌っていたため、楚王にこう言いました「ある人が狗を飼っていました。彼はその狗の責任感が強いと信じており、狗をとても愛しました。しかしある日、狗が井戸に小便をしました。それを見た隣人が飼い主に教えようとしましたが、狗は隣人を嫌い、門前で噛みつきました。恐れた隣人は忠告をあきらめます。邯鄲の難(恐らく前年から本年にかけて魏が趙の邯鄲を包囲した戦い)において、楚は大梁に兵を進めてこれを取りました(魏が邯鄲を包囲した時、楚は兵を北上させて魏を攻撃しました。但し、魏の大梁を占領したという記述はありません)。あの時、昭奚恤は魏の宝器を奪いました。私は魏にいたのでよく知っています。だから昭奚恤は臣が王に会うことを嫌うのです。」
 
江乙はこうも言いました「下の者が徒党を組んだら上が危うくなり、下の者が分かれて争ったら上は安定します。王はこの道理をご存知でしょうか。これを忘れてはなりません。ところで、ある人が他の人の善いところを好んで宣伝したら、王はどう思いますか?」
王は「それは君子だ。近くに置こう」と答えました。
江乙が再び問いました「ある人が人の悪いところを好んで宣伝したら、王はどう思いますか?」
王が答えました「それは小人だ。遠ざけることにする。」
すると江乙はこう言いました「そのようでは、ある家の子が父を殺し、ある国の臣が主を弑殺しても、王は知ることができません。なぜでしょうか。王は人の美を聞くことを好み、人の悪を聞くことを嫌うからです。」
王は「わかった。寡人は両方の意見を聞くことにしよう」と言いました。
こうして、江乙は昭奚恤を批難できる環境を作りました。
 
江乙と昭奚恤は「虎の威を借りる狐」の故事でも有名です。これも『戦国策楚策一』にあります。
(楚)宣王が群臣に問いました「北方の諸侯は昭奚恤を恐れていると聞くが、本当だろうか。」
群臣が答えられない中、江乙が言いました「百獣を食べる虎が、ある時、狐を捕まえました。すると狐が言いました『あなたは私を食べることができません。天帝が私を百獣の長にしたからです。だからあなたが私を食べたら、それは天帝の命に逆らうことになります。もし信じられないなら、私の後について来てください。百獣は私を恐れて近寄ろうとしないはずです。』虎は狐の言うとおり、狐の後について歩きました。近くにいた獣達は皆恐れて逃げ出します。実際には、獣達は狐の後ろにいる虎を恐れたのですが、虎はそれに気がつかず、狐が恐れられていると信じました。
今、王は五千里の土地を持ち、百万の帯甲(兵)を養っていますが、それらは昭奚恤に管理されています。北方の諸侯は昭奚恤を恐れているように見えますが、本当に恐れているのは王の甲兵です。百獣が虎を恐れたのと同じ道理です。」
この故事から「虎の威を借りる狐」という言葉が生まれました。
 
 
 
次回に続きます。