戦国時代42 東周顕王(十) 馬陵の戦い 前341年(1)

今回は東周顕王二十八年です。二回に分けます。
 
顕王二十八年
341年 庚辰
 
[] 魏の龐涓が韓(または「趙」。後述します)を攻撃しました。韓は斉に救援を求めます。
斉威王が大臣を集めて問いました「速く援けに行くべきか、ゆっくり援けに行くべきか?」
斉相の成侯鄒忌が言いました「援けるべきではありません。」
田忌が反対して言いました「我々が援けに行かなかったら、韓が滅んで魏に呑み込まれてしまいます。速く援けに行くべきです。」
孫臏が言いました「韓と魏の兵がまだ疲弊していないのに援けに行ったら、我々が韓に替わって魏の兵を受けることになり、逆に韓の命を聴く立場になってしまいます。魏には韓を滅ぼす野心があるので、(魏の猛攻が続いて)韓が滅亡に瀕したら、必ず改めて東面して斉に危急を訴えます。その時に援ければ、韓との親(親密な関係)を深くし、しかも疲弊した魏につけいることができます。これが重利と尊名を得る計です。」
威王は「善し」と言って同意し、魏に知られないように韓の使者と出兵を約束して帰らせました。
韓は斉の援軍が来ると信じて魏軍と戦いましたが、五戦して敗れます。
韓は再び斉に国運を託す使者を送りました。
 
斉がやっと兵を起こしました。田忌、田嬰孟嘗君の父。後述)、田盼が将に、孫子が師となります。しかし斉軍は韓に向かわず、直接、魏都に向かいました。
魏の龐涓は斉軍の動きを聞いて韓から兵を引きました。
魏都・安邑では多数の兵が動員され、太子申が将となって斉軍を防ぐ態勢を構えました。
 
孫子が田忌に言いました「三晋の兵はかねてから悍勇で知られており、斉を軽視しています。そのため斉は怯(臆病)と号されています。戦を善くする者は形勢によって利を導くものです。『兵法孫武兵法)』には『百里を駆けて利を求める者は上将を失い、五十里を駆けて利を求める者は軍の半分しか到着できない百里而趣利者蹶上将,五十里而趣利者軍半至)』とあります。」
斉軍が魏領に入った初日、露営地に十万の竈(かまど)が作られました。しかし翌日は五万、三日目は二万の竈に減らされます。
 
魏領に戻った龐涓は斉軍の後を三日間追い、竈が減っていくのを確認しました。龐涓が喜んで言いました「わしは以前から斉軍の怯(臆病)を知っていた。我が地に入って三日しか経っていないのに、逃亡する士卒が半数を超えた。」
龐涓は歩軍を残し、軽鋭の兵だけを率いて通常の二倍の速度で追撃しました。
 
孫子は魏軍の行軍速度を計り、日が暮れてから馬陵に至ると判断しました。馬陵の道は狭く、険隘な地形に囲まれているため、伏兵を置くのに適しています。孫子は大樹の皮を削り、白い幹に「龐涓はこの樹の下で死ぬ(龐涓死此樹下)」と書かせました。
斉軍で射術が得意な者を選び、万弩を道の両側に伏せさせます。弩兵達には「日が暮れてから火が挙がるのを見たら一斉に矢を放て」と命じました。
 
夜、龐涓の軍が馬陵道に入りました。龐涓は大樹が削られて白い幹に何かが書かれているのを見つけます。そこで火を灯すように命じました。すると樹に書かれた文字を読む間もなく万弩が一斉に放たれました。
魏軍は大混乱に陥ります。立て直しができないと知った龐涓は「豎子に名を成さしめることになった!」と言うと自刎しました。
斉軍は勝ちに乗じて魏軍を大破し、太子申を捕らえました。
 
以上は『資治通鑑』の記述を元にしました。以下、『史記魏世家』からです。
魏が趙を攻めたため、趙が斉に急を告げました。
資治通鑑』は『戦国策(斉策一)』と『史記孫子呉起列伝(巻六十五)』を元にしており、『戦国策』には「南梁(韓の邑)の難で韓氏が斉に救援を求めた」とあり、『孫子列伝』には「魏と趙が韓を攻めたため、韓が斉に急を告げた」と書かれているため、上述の『資治通鑑』も「魏が韓を攻めた」としています。
しかし『魏世家』は「魏が趙を攻めた」としており、注(正義)が『孫子列伝』の記述は誤りと書いています。
『趙世家』と『韓世家』には馬陵の戦いに関する記述がありません。
『田敬仲完世家』では「魏が趙を攻めた。韓が趙と友好関係にあったため共に魏を攻撃したが、趙は南梁で魏軍と戦って敗れた」としており、その後、斉軍が韓趙を救って馬陵で魏軍に大勝します(次回再述)
『田敬仲完世家』によると魏が戦ったのは趙と韓の連合軍で、戦った場所は南梁(韓領)だったようです。但し、南梁は趙から遠く離れているので、魏が最初に攻撃したのは趙ではなく韓の南梁で、趙が援軍を出した可能性があります(『田敬仲完世家』の逆です)
 
『魏世家』に戻ります。
斉宣王は孫子の計を用いて趙を救うために魏を攻撃しました。
魏は大軍を発して斉軍を迎撃しました。龐涓が将に、太子申が上将軍になります。
魏軍が外黄(宋領)を通った時、外黄人徐子が太子申に謁見して言いました「臣には百戦百勝の術があります。」
太子が「それを聞くことができるか?」と問うと、徐子は「もとよりそのつもりです」と言ってから、こう続けました「太子が自ら将となって斉を攻め、大勝して莒の地(斉の東南)まで占領したとしても、太子の富は魏の国を有するにすぎず、貴(位)は王になるしかありません。しかしもし逆に斉に負けたら、万世の子孫が魏を有することもできなくなります。これが臣の百戦百勝の術です(あなたは既に太子なので勝ったとしても将来、魏国の主になるだけです。しかし負けたら太子の位を失います。戦わなくてもいずれ魏の主になれるのに、負けたら全てを失います)。」
太子が「わかった。公の言に従って兵を還すことにしよう」と応えましたが、徐子はこう言いました「太子が還りたいと思っても恐らく無理でしょう。太子に戦攻を勧めてうまい汁を吸おうとしている者が大勢います。太子は還りたくても還ることができません。」
それでも太子は帰国しようとしました。しかし御者が諫めて言いました「将として国を出たのに何もせず還ったら、敗北したのと同じです。」
太子は斉との戦いを決意しましたが、馬陵で大敗しました。斉は太子申を捕虜にし、将軍龐涓を殺しました。
 
龐涓について、『史記』と『資治通鑑』は龐涓を殺したとしていますが、『戦国策斉一』や『孫臏兵法』という書をみると、「禽龐涓」、つまり「龐涓を擒(捕虜)にした」と書かれています。
 
戦いがあった時間も諸説があり、『竹書紀年』は馬陵の戦いを二年前、または三年前の事としています。
『古本』には「梁恵王二十八年(東周顕王二十六年。二年前)、斉の田肦(田盼)と馬陵で戦う」「斉威王十四年(東周顕王二十六年)、田肦が梁を攻めて馬陵で戦う」「梁恵王二十七年(東周顕王二十五年。三年前)十二月、斉の田肦が馬陵で梁を破る」といった記述があり、『今本』も馬陵の戦いを二年前(東周顕王二十六年)に書いています(二年前と前年参照)
このうち、『古本』の「梁恵王二十七年十二月」に関しては、魏は夏暦を使っていたので、周暦に置き換えると「梁恵王二十八年二月」になり、他の記述(梁恵王二十八年。東周顕王二十六年)と同じ年を指すという説や、馬陵の戦いは大きな会戦だったため、梁恵王二十七年末に始まって二十八年に終わったという説があります。

馬陵の戦いの地図です。『中国歴代戦争史』『資治通鑑』を参考にしました。
イメージ 1



次回に続きます。