戦国時代43 東周顕王(十一) 田忌の出奔 前341年(2)

今回は東周顕王二十八年の続きです。
 
[] 斉の成侯鄒忌(『資治通鑑』胡三省注によると、鄒は国名から生まれた氏です)は田忌を嫌っていました(以下、『資治通鑑』の記述です。『史記田敬仲完世家』は東周顕王二十五年・前344年に書いています)
 
鄒忌がある者に十金を持たせて市で卜をさせました。その者が卜いを施す者にこう言いました「私は田忌の部下です。田忌は『わしは三戦三勝したから大事を行いたいと思うが、可能だろうか?』と言って私に卜いをさせました。」
卜を行った者(原文「卜者」)が出てくると、鄒忌は人を送って逮捕させ(『資治通鑑』の記述では逮捕された者が田忌の部下を偽った者なのか、卜を施した者なのかはっきりしません。原文は「卜者出,因使人執之」です。しかし『史記・田敬仲完世家』と『戦国策斉策一』は卜を施した者を逮捕したとしています)、田忌の謀反を糾弾しました。
田忌は釈明できないと判断し、鄒忌を討つために自分の徒衆を率いて国都臨淄を攻撃しました。しかし敗れて楚に出奔しました。
 
資治通鑑』では、田忌は馬陵の戦いの後に出奔し、東周顕王三十六年(前333年)に斉に帰国します(再述します)
しかし『史記田敬仲完世家』は馬陵の戦いの三年前に田忌が出奔し(東周顕王二十五年・前344年)、馬陵の戦いの直前に呼び戻されたとしています。以下、『田敬仲完世家』からです(前回の内容に一部重複します)
斉宣王二年(本年)、魏が趙を攻めました。韓は趙と友好関係にあったため、共に魏を攻撃しました。しかし趙は南梁で魏軍と戦って敗れました。
この頃、斉宣王が田忌を呼び戻して元の位に復しました。
魏の攻撃を受けることになった韓氏が斉に救援を求めたため、宣王が大臣を集めて「速く援けに行くべきか、ゆっくり援けに行くべきか?」と問いました。
斉相の成侯鄒忌が言いました「援けるべきではありません。」
田忌が反対して言いました「我々が援けに行かなかったら、韓が滅んで魏に呑み込まれてしまいます。速く援けに行くべきです。」
孫臏が言いました「韓と魏の兵がまだ疲弊していないのに援けに行ったら、我々が韓に替わって魏の兵を受けることになり、逆に韓の命を聴く立場になってしまいます。魏には韓を滅ぼす野心があるので、韓が滅亡に瀕したら、必ず改めて東面して斉に危急を訴えます。その時に援ければ、韓との親を深くし、しかも疲弊した魏につけいることができます。これが重利と尊名を得る計です。」
威王は「善し」と言って同意し、魏に知られないように韓の使者と出兵を約束して帰らせました。
韓は斉の援軍が来ると信じて魏軍と戦いましたが、五戦して敗れます。
韓は再び斉に国運を託す使者を送りました。
斉は兵を起こして田忌、田嬰を将とし(田盼がいません)孫子を師にしました。
斉軍は韓趙を救って魏を撃ち、馬陵で大勝します。龐涓を殺して魏の太子申を捕虜にしました。
馬陵の戦いの後、三晋の王(この時はまだ王を称していません)が斉の田嬰を通じて博望で斉王に朝見し、盟を結んで去りました。
『田敬仲完世家』の注(集解)は「『年表』の斉宣王三年(翌年)に『斉が趙と博望で会して魏を攻めた』という記述がある」と解説していますが、中華書局の『史記六国年表』を見ると斉宣王三年に「斉が趙と会して魏を攻めた」と書かれているだけで、博望の地名は見られません。
 
史記孟嘗君列伝(巻七十五)』にも田忌の出奔について書かれています。以下、 『孟嘗君列伝』からです。
孟嘗君は名を文といい、田氏に属します。父は靖郭君田嬰で、斉威王の少子、宣王の庶弟にあたります。田嬰は威王の時代から政治に参与し、成侯鄒忌や田忌と共に兵を率いて韓を援け、魏と戦いました(この戦いがいつの戦いを指すのかははっきりしません。桂陵の戦いだとしたら、斉が援けたのは韓ではなく趙です)
成侯は田忌と寵を争っていたため、田忌を陥れました。田忌は恐れて斉の辺邑を攻めましたが(『田敬仲完世家』では斉都臨淄を攻撃しています)、勝てなかったため出奔しました。
威王が死んで宣王が即位すると、成侯が田忌を陥れたと知り、再び招いて将にしました。
宣王二年(本年)、田忌と孫臏、田嬰が共に魏を攻めて馬陵で破り、魏の太子申を捕虜にして魏将龐涓を殺しました。
 
『戦国策斉一』は『資治通鑑』の記述に近く、田忌は馬陵の戦いの後に出奔します。以下、『戦国策』からです。
田忌は斉将となって梁(魏)の太子申と龐涓を捕えました(ここでは龐涓は捕虜になっています。前回参照)
孫子が田忌に言いました「将軍は大事を成すことができますか?」
田忌が「(大事を成すには)どうすればいい?」と聞き返すと、孫子が言いました「将軍は武装を解かないで斉に向かうべきです。まず、魏との戦いで疲弊した老弱の兵に主(要地)を守らせます。主(要地)とは車一輌の轍(わだち)しか通れない道です。もし二輌の車が並進しようとしたら、車輪がぶつかってしまいます。このような場所なら、疲弊した老弱の兵でも一人が十人に値し、十人が千人に値します。その後、太山を背に、済水を左に、天唐(不明)を右にして軍を高宛まで還し、軽車精騎で雍門(斉都西門)を衝けば、斉君を安定させて、成侯を走らせることができます。逆にそうしなければ、将軍が斉に入ることはできません。」
田忌は孫子の進言に従わなかったため、斉に帰国できなくなりました。
田忌が楚に亡命し、鄒忌が代わって相になります(『史記』では、鄒忌は以前から相になっています)。しかし鄒忌は田忌が楚の力を借りて斉に帰ってくることを心配しました。
そこで杜赫が鄒忌に言いました「臣が田忌を楚に留めさせましょう。」
杜赫は楚に赴いて楚王にこう言いました「鄒忌が楚との関係を改善しようとしないのは、田忌が楚の力を借りて斉に帰ることを恐れているからです。王は田忌に江南の地を封じ、斉に帰らせるつもりがないことを示すべきです。そうすれば、鄒忌は斉国を挙げて楚に従うでしょう。また、田忌は亡人(亡命者)なので、封地を得たら必ず王を徳とします(感謝します)、もし今後、斉に帰ったとしても、やはり斉国を挙げて楚に従うでしょう。これが二忌を利用する道です。」
楚は田忌に江南の地を与えました。
 
[] 『竹書紀年』(古本今本)によると、魏が済陽に城を築きました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、秦が衛鞅を鄔に封じ、邑名を尚に改めました。
『古本』は「鄔」を「」と書くこともありますが(版本によって異なります)、恐らく「鄔」が正しいです。また、『古本』は「尚」を「商」としています。
史記』『資治通鑑』は翌年(東周顕王二十九年340年)に秦が衛鞅を商於に封じたと書いています。
 
[] 『史記六国年表』はこの年、秦で馬が人を生んだと書いています。
 
 
 
次回に続きます。