戦国時代44 東周顕王(十二) 魏の遷都 前340~339年

今回は東周顕王二十九年と三十年です。
 
顕王二十九年
340年 辛巳
 
[] 『今本竹書紀年』によると、三月、魏が都城の北郛(北の外城)に大溝(大濠)を造り、圃田の水を入れました。
 
[] 秦の衛鞅が秦孝公に言いました「秦と魏の関係は人の腹心に疾(病)があるのと同じです。魏が秦を併合しなければ秦が魏を併合することになります。魏は嶺阨(険阻な山嶺)の西に位置し、安邑に都を置いて、秦とは河黄河を境にしています。魏は山東(崤山以東)の利を独占しており、利があれば西進して秦を侵し、病(困窮)となったら東に戻って地を収縮することができます。今、主公の賢聖によって我が国は強盛を擁しています。逆に魏は昨年、斉に大敗し、諸侯も魏から離れています。この機に乗じて魏を討伐するべきです。魏が秦を支えることができなければ、必ず東に遷ります。そうなれば秦が河山黄河と崤山)の固(堅固な守り)を利用し、東に向かって諸侯を制すことができます。これこそ帝王の業というものです。」
孝公はこれに従いました。
衛鞅が兵を率いて魏を攻撃します。
魏は公子卬を将にして秦軍に対抗させました。
 
両軍が対峙すると、衛鞅が公子卬に書を送ってこう伝えました「以前、私は公子と交際がありましたが、今はこうして両国の将として対峙することになってしまいました。私には互いに戦いあうことが忍びないので、公子と直接会って盟を結び、酒宴を楽しんでから兵を退いて、秦魏の民を安んじさせたいと思います。」
公子卬はこれを信じて衛鞅に会いに行きました。互いに盟を結んでから酒宴が始まります。
ところが衛鞅は甲士を隠しており、公子卬を捕らえてしまいました。
秦軍は将がいなくなった魏軍を襲って大勝します。
 
魏恵王は恐れて秦に使者を送り、河西の地を献上することで講和しました。
恵王は安邑を去って大梁に遷都します。
恵王が嘆いて言いました「公叔の言を用いなかったことを後悔している。」
 
秦は衛鞅に商於十五邑を与えました。この後、衛鞅は商君と号します。衛鞅が商鞅とよばれるのは商於の邑名からきています。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記魏世家』が遷都について書いています。
秦が商君を用いて東の地を黄河まで拡げました。斉と趙もしばしば魏を破りました。
魏都安邑は秦に近かったため、大梁に遷都しました。
 
『竹書紀年』(今本古本)は二十年以上前に魏の遷都を書いています(東周顕王四年365年参照)
 
[] 『史記楚世家』によると、秦が衛鞅を商(商於)に封じてから南の楚を侵しました。
 
[] 斉と趙が魏を攻撃しました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記魏世家』は「秦、趙、斉が共に魏を攻めた」としており、『六国年表』は「斉が趙と会して魏を攻めた」と書いています。
 
『竹書紀年』は二年前(魏恵王二十九年・東周顕王二十七年)に「五月、斉の田肹(田盼。田肦)と宋人が魏の東鄙(東境)を攻めて平陽を包囲した。九月、秦の衛鞅が魏の西鄙を攻撃した。十月、邯鄲(趙)が魏の北鄙を攻撃した。魏王が秦の衛鞅を攻めたが、魏軍が敗退した」と書いています(東周顕王二十七年・前342年参照)
 
また、『古本竹書紀年』には本年、「秦と魏が岸門で戦った」とあります(版本によっては翌年)
史記秦本紀』は二年後(東周顕王三十一年338年)に「秦が晋(魏)と雁門で戦った」としており、『六国年表』には翌年(顕王三十年339年)に「秦と晋が岸門で戦った」とあります(二年後に再述します)
 
[] 楚宣王が在位三十年で死に、子の威王商が立ちました。
 
[] 『史記魏世家』によると、公子赫が太子に立てられました。馬陵の戦いで太子申を失ったためです。但し、『史記魏世家』では恵王の死後に即位する襄王の名を「嗣」としています(東周恵王三十四年335年参照)
『六国年表』は翌年に「公子赫を太子に立てる」と書いています。
 
[] 『今本竹書紀年』に「邳を薛に遷した」と書かれています。
『古本』には「邳(または「下邳」)を薛に遷し、徐州に改名した」とあります。
『竹書紀年』は魏の史書なので魏の出来事のようですが、薛の地は後に斉が田嬰に与えるので(東周顕王四十八年321年)、斉の出来事かもしれません。『古本竹書紀年輯校訂補』の年表は斉の欄に書いています。
 
 
 
翌年は東周顕王三十年です。
 
顕王三十年
339年 壬午
 
[] 『史記趙世家』はこの年に「秦孝公が商君に魏を攻めさせ、その将である公子卬を捕らえた。趙が魏を攻めた」としています(前年参照)
 
[] 『史記六国年表』は本年に魏が公子赫を太子に立てたとしています(前年参照)
 
 
 
次回に続きます。