戦国時代45 東周顕王(十三) 商鞅の失脚 前338~337年

今回は東周顕王三十一年と三十二年です。
 
顕王三十一年
338年 癸未
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が晋(魏)と雁門(『史記索隠』は「岸門」の誤りとしています。『六国年表』では「岸門」です)で戦いました。魏の将魏錯を捕虜にします。
『六国年表』はこの戦いを前年に、『古本竹書紀年』は二年前に書いています。
 
[] 『史記六国年表』がこの年に「大荔が合陽を囲む」と書いていますが、詳細はわかりません。
大荔はかつて国を成していましたが、秦に滅ぼされました(東周貞定王八年・461年参照)
 
[] 『今本竹書紀年』によると、秦の蘇胡が鄭(韓)を攻めましたが、韓襄(韓将)が秦の蘇胡を酸水で破りました。
 
[] 秦孝公が在位二十四年で死に、子の駟が立ちました。これを恵文王といいます(即位当時はまだ王を名乗っていません。『史記六国年表』と『資治通鑑』では恵文王ですが、『史記秦本紀』は「恵文君」と書いています)
 
孝公の死によって商鞅が失脚し、命を失いました。『資治通鑑』からです。
恵文王は太子だった頃から商鞅を怨んでいました(罪を犯して師を誅殺されたからです)。その他の公族も既存の権益を奪われたため、商鞅を憎んでいます。
そこで公子虔の徒衆が商君衛鞅の謀反を訴え、官吏を送って逮捕しようとしました。
商君は魏に奔りましたが、魏人に拒否されたため再び秦に戻ります。二年前に商鞅が詐術で魏軍を破ったため、魏人も商鞅を深く怨んでいたようです。
商君は自分の徒衆を連れて商於を拠点とし、北の鄭県を攻撃しました。
しかし秦人が商君を攻めて殺し、見せしめとして車裂の刑を行いました。商鞅の家族も滅ぼされます。
史記六国年表』には「商君が反し、彤地で死ぬ」とあります。
 
秦の相を勤めていた商君は過酷な法を用いて民を統治しており、かつて渭水の辺で囚人を処刑した時には、殺された数があまりにも多かったため渭水が赤く染まりました。
衛鞅は相として君臨した十年の間に多くの人から怨まれました(『資治通鑑』胡三省注によると、東周顕王二十一年・前348年に賦税の法を改正した頃、秦相に任命されたようです。本年で十年になります)
 
かつて趙良が商君に会った時、商君がこう聞きました「子(あなた)は私が秦を治めるのを見て、五羖大夫百里奚)とどちらが賢人だと思いますか?」
趙良が言いました「千人が声をそろえて賛同するよりも、一人が厳しく諫める方が価値あるものです(千人之諾諾,不如一士之諤諤)。私が正言を述べても誅殺しないと約束していただけますか?」
商君は「約束しましょう(諾)」と答えます。
趙良が言いました「五羖大夫は荊(楚)の鄙人(農夫)でしたが、穆公が牛口の下から抜擢して百姓の上に置き、秦国には敢えて彼と対等になろうとする者がいなくなりました。秦の相となって六七年の間に東は鄭を討伐し、三回晋君(恵公。懐公。文公)を置き、一度は荊禍から救いました(「荊禍」は「楚の禍」という意味。晋は城濮で楚に大勝してから、崤で秦を破りました。そのため秦は楚と講和しました。楚の禍から救ったというのは楚との講和を指すようです)。五羖大夫が相を勤めていた時は、疲労しても車に乗ることなく、暑くても蓋(傘)を立てませんでした。国中を巡行する時は車乗を随行させず、干戈(武器)も携行しませんでした。五羖大夫が死ぬと秦国の男女が涙を流し、童子は謡(歌)を歌わず、舂者(臼を打つ者)も掛け声をかけなくなったものです。
しかし今、あなたの行動を見ると、まず嬖人(国君の寵臣)景監を主(頼り)とし、政治を行うようになってからは公族を虐げ、百姓を傷つけています。公子虔は門を閉ざして外出することがなくなり、既に八年が過ぎました。しかも祝懽(人名。『資治通鑑』胡三省注によると、古代は巫祝といった官があり、その子孫は官名を氏にしました。祝もその一つです。または西周武王が黄帝の子孫を祝に封じたため、その子孫が祝を氏にしたともいわれています)を殺し、公孫賈を黥(入墨の刑)に処しました。『詩(逸詩)』にはこうあります『人を得た者は興り、人を失った者は崩れる(得人者興,失人者崩)。』あなたがしてきた事は人を得るための行いではありません。
また、あなたが外出する時は後ろに車が従い、自分の車にも甲士を乗せ、多力で(強壮)な者が驂乗(馬車に同乗する士)となり、力士が矛を持って車を守りながら走っています。これらの守備の一つでも欠けたら、あなたは外出しようとしません。『書(逸書)』にはこうあります『徳に頼る者は隆盛し、力に頼る者は滅亡する(恃徳者昌,恃力者亡)。』あなたがしてきた事は徳に頼っている行いではありません。あなたの危険な状況は朝露(はかない物)と同じです。それなのにまだ商於の富を貪り、秦国の政を独占することを寵(栄誉)と考え、百姓の怨を蓄えています。秦王が一旦賓客を捨てて(「捐賓客」。身分の高い者が死ぬこと)朝廷に立たなくなったら、秦国であなたを捕らえようとする者は少なくないでしょう。‘
商君は態度を改めなかったため、五カ月後に難に遭いました。
 
衛鞅は処刑されましたが、衛鞅が実施した変法改革の成果は継承され、秦は法治を国是として成長を続けます。始皇帝が天下を統一するのは約百二十年後のことです。
 
 
 
翌年は東周顕王三十二年です。
 
顕王三十二年
337年 甲申
 
[] 秦で恵文君(恵文王)が即位したため、楚、韓、趙、蜀の人が秦に朝見しました。
 
[] この年、韓の申不害が死にました。
 
 
 
次回に続きます。