戦国時代46 東周顕王(十四) 孟子 前336~335年

今回は東周顕王三十三年と三十四年です。
 
顕王三十三年
336年 乙酉
 
[] 宋の太丘(地名)の社(土地神の社)が崩れました(東周顕王四十二年327年に再述します)
 
[] 『史記周本紀』『秦本紀』にはこの年に周顕王が秦恵王(実際はまだ王を称していません)を賀したとありますが、『資治通鑑』は触れていません。
史記六国年表』は「天子が秦を賀した」という記述の後、「行銭」と書いています。
恐らく秦が貨幣を発行したという意味です。
 
[] 『史記魏世家』『田敬仲完世家』によると、魏恵王が平阿南(または「東阿南」)で斉宣王と会しました。
 
[] 『史記魏世家』によると、魏恵王はしばしば戦で失敗したため、恭敬な態度をとって厚幣で賢者を招きました。
鄒衍、淳于、孟軻孟子等が魏都梁に集まります。
 
恵王が孟軻孟子に言いました「寡人は不佞(不才)のため、国外で三回も兵を折り(敗戦し)、太子が捕まり、上将が死に、国が空虚になり、先君の宗廟社稷を辱めてしまいました。寡人はこれを甚だしい醜(恥辱)としています。叟(老人を尊重する呼び方。先生)は千里の距離を遠いと思うことなく弊邑の廷に来てくれましたが、我が国にどのような利をもたらしていただけるのでしょうか?」
孟軻が答えました「国君が利を語ってはなりません。もし国君が利を語ったら大夫も利を欲し、大夫が利を欲したら庶人も利を欲することになります。上下が利を争ったら国が危うくなります。人の君となる者は仁義があれば足ります。なぜ利を語るのですか。」
 
ほぼ同じ内容を『資治通鑑』からです。
春秋時代の邾国)の人孟軻孟子が魏恵王に会いに行きました。
恵王が言いました「叟は千里を遠いと思うことなく来てくれましたが、我が国にどのような利をもたらすつもりでしょうか?」
孟子が言いました「国君はなぜ利を口にする必要があるのですか。仁義があるのみです。国君が自分の国にどのような利をもたらすかを問い、大夫が自分の家にどのような利をもたらすかを問い、士庶人が自分の身にどのような利をもたらすかを問い、上下がそろって利を求めたら、国を危うくしてしまいます。仁がない者は自分の親を棄て、義がない者は自分の国君を後ろにするものです(自分を優先して国君のことを考えません)。」
恵王は納得して「善し」と言いました。
 
同じく『資治通鑑』からです。
以前、孟子は子思孔子の孫)に師事し、牧民の道(民を治める道)において何を優先するべきか問いました。子思は「利を優先するべきだ」と答えます。
すると孟子はこう問いました「君子が民を教導するには、仁義の教えがあるだけです。なぜ利が必要なのですか。」
子思が答えました「仁義とは元々利をもたらすものである。上が不仁なら下は居場所を得ることができず(「不得其所」。安定できない)、上が不義なら下は詐謀を好むようになる。これは不利の最も大きなものだ。だから『易』には『利とは義の和である(利者義之和也)』とあり、また、『利によって身を安んじ、徳を弘揚する(利用安身,以崇徳也)』と書かれているのだ。これらは利の最も大きなものだ。」
資治通鑑』の編者司馬光は、「子思と孟子は同じことを言っている」としています。仁を知っている者は仁義が利になることを知っていますが、不仁の者にはそれが理解できません。だから孟子は梁王(魏王)に対して仁義だけを語り、子思は孟子に対して利を説きました。
 
ここで少し孟子に関して解説します。
孟子孔子に継ぐ儒学の大家です。
春秋時代末期に孔子が「仁」を説きました。戦国時代の孟子孔子の思想を発展させて「仁義」を説きます。
簡単にいうと「仁」とは人に対する思いやりや愛情のことです。
但し儒学における「仁」は全ての人に対する普遍的な愛ではなく、身分制度の存在を前提とした愛です。例えば君臣、父子、夫婦等、様々な立場にいる人がそれぞれの秩序を守ったうえで抱く愛なので、自分や相手の立場によって愛情の内容も表現方法も全く異なります。臣下が国君に対して抱く「忠」、子が親に対して抱く「孝」、友人同士に必要とされる「信」といった概念も「仁」の範疇に含まれます。
儒者が説く「仁」に対して墨子等の思想家は身分制度を無視した愛(兼愛)を説きました。これに関しては別の機会に述べます。
 
「義」は人間関係において必要とされる道徳観で「義理」「信義」や「忠義」といった言葉に置き換えることができます。
例えば友人間では「信義」を、臣下が国君に対しては「忠義」を守らなければならない、という考えです。
但し、君臣の上下関係において、孟子は一方的な服従を説いたわけではありません。国君の出来が悪い場合は革命を起こして国君を換えることもできる、と説いています。周が商を滅ぼし、商が夏を滅ぼしたのはそのためです。
孟子の思想は周王室の権威が完全に失墜し、各国が王を名乗り始め、弱肉強食の風潮が更に強くなった当時の時代背景を反映しています。
 
孟子は「性善説」でも知られています。
人の本性は「善」であるのに、教育や社会環境によって「悪」に変わることも多い、という考えです。本来「善」であるはずの人の本性を守るためには、教育を重視し、「仁義」といった道徳観を養うことが必要である、と孟子は説きました。
魏恵王の前で「利」ではなく「義」を主張したのも、「利」は人の善を悪に変える力があるのに対して、「義」は人の善を善のまま保つことができると考えたからです。
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年に「鄭威侯と邯鄲(趙)が魏の襄陵を包囲した」と書いています。
『古本』は東周顕王四十二年(前327年)の事としています(再述します)
 
 
 
翌年は東周顕王三十四年です。
 
顕王三十四年
335年 丙戌
 
[] 『史記秦本紀』によると、この年、秦恵文君(恵文王)が冠礼を行いました。成人になったことを意味します。
 
[] 『史記魏世家』『田敬仲完世家』によると、魏恵王が再び斉王と甄で会しました。
 
[] 秦が韓を攻めて宜陽を占領しました。
 
[] 『史記魏世家』『趙世家』『田敬仲完世家』『六国年表』はこの年に魏恵王が死んだとしています。在位年数は三十六年です。
恵王の子嗣が立ちました。これを襄王といいます。
『魏世家』は東周顕王二十九年(前340年)に「公子赫を太子に立てる」と書いています。公子赫と襄王嗣が同一人物かどうかはわかりません。
翌年、魏は王を名乗ります。
 
資治通鑑』は本年に恵王の死を書いていません。
史記』は本年に魏恵王が死んで襄王が即位し、襄王元年(翌年)に魏が王を名乗ったとしています。この場合、恵王は死後に贈られた尊号になり、生前は王を称していないことになります。
しかし通常(『資治通鑑』等)は、恵王はまだ死なず、翌年(東周顕王三十五年・前334年)に恵王が王を名乗って改元したと考えられています。この場合、翌年は魏恵王改元元年(王位についてからの元年)になります。『史記』はこの「恵王改元元年」を襄王の元年と間違えたようです。
 
魏の史書である『竹書紀年』(今本古本)では、東周顕王三十四年・魏恵成王三十六年(本年)改元したとしています。この場合、本年は魏恵成王三十六年(王を名乗る前の在位年数)であり、改元元年(王を名乗ってからの年数)でもあります(但し、『竹書紀年』の版本によっては、翌年を魏恵王改元元年とすることもあります)
 
これらをまとめると、『史記』では翌年は魏襄王元年、『資治通鑑』では翌年は魏恵王改元元年、『竹書紀年』では本年が魏恵成王改元元年となります。
 
また、『今本』にはこの年に「魏恵成王が諸侯と徐州で会した」とあります。『史記』『資治通鑑』は翌年に魏が諸侯(または斉)と会して互いに王を名乗りあったと書いています(翌年再述)
 
[] 『史記趙世家』によると趙が寿陵(陵墓)の建築を開始しました。『史記』の注(正義)はその場所を「常山」としています。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、於越子(越王)無疆が楚を攻撃しました。
 
 
 
次回に続きます。