戦国時代47 東周顕王(十五) 徐州の会と魏・斉の称王 前334年(1)
今回は東周顕王三十五年です。二回に分けます。
顕王三十五年
前334年 丁亥
[二] 斉王と魏王が徐州で会し、互いに王の尊称を名乗りあいました(『今本竹書紀年』は前年の事としています)。
『資治通鑑』では、斉は威王、魏は恵王になります。今までも便宜上「斉威王」「魏恵王」等と書いてきましたが、実際にはここから王号が始まります。
『史記』では、斉は宣王、魏は襄王です。
諸侯が王位を認め合ったこの会合は、歴史的な大事件です。
これまでに周王以外で王を名乗っていたのは楚・呉・越といった辺境の国だけです。しかし徐州の会によって中原の諸侯である魏と斉も周王室と対等の権力を持つことを天下に認めさせました。
この後、その他の国々も王を称し、周王室は完全にその存在を無視されるようになります。今までは形だけでも存在していた天子の地位が完全に意味を持たないものになりました。
戦国時代も既に半分以上が過ぎました。各国に生まれつつあった「周王室に代わって天下を治める」という意識が称王によって急速に浸透していきます。
ところが、この大事件の主役がはっきりしません。
まず斉です。
上述の通り、『資治通鑑』はこの時の王を威王としています。しかし『史記・田敬仲完世家』『六国年表』では、斉威王はすでに死んでおり、宣王の時代になっています。しかも『田敬仲完世家』は東周顕王十六年(前353年)に桂陵の戦いで魏を破った威王が王を称したとしています。その場合、斉は徐州の会よりも前から王を名乗っていたことになります。
魏恵王
東周顕王三十四年(前335年。前年)、死去。
魏襄王
東周顕王三十五年(前334年。本年)、王を称す。
東周慎靚王二年(前319年)、死去。
魏哀王
東周慎靚王三年(前318年)~東周赧王十九年(前296年)
魏昭王
東周赧王二十年(前295年)~
『資治通鑑』
魏恵王
東周慎靚王二年(前319年)、死去。
魏襄王
東周慎靚王三年(前318年)~東周赧王十九年(前296年)
魏昭王
東周赧王二十年(前295年)~
[三] この年、韓が干害に襲われました。
しかし韓昭侯は民の救済を疎かにし、高門の建築を始めました。
この時、韓にいた楚の大夫・屈宜臼が言いました「韓の国君はこの門を出ることができないでしょう。『不時(時に順じていないこと)』だからです。私が言う『時』というのは、日時のことではありません。人には利と不利の時があります。かつて韓の国君には利がありましたが、その時には高門を造りませんでした。ところが、前年、秦が宜陽を攻略し、今年は旱害に襲われているのに、民の急務を顧みず奢侈を増そうとしています。これは多難な時に強がる(時詘挙贏)というものです。だから『不時』だというのです。」
しかし趙相・大戊午(東周烈王四年・前372年参照)が粛侯の馬を抑えて「耕事(農事)が忙しい時です。一日耕作を行わなかったら百日の食を失うことになります」と言いました。
国君が巡行すれば各地でもてなしをしなければならず、農業が疎かになります。
粛侯は車から降りて謝罪しました。
[七] 『史記・燕召公世家』によると、秦恵王が娘を燕の太子に嫁がせて婦人にしました。
[八] 『今本竹書紀年』によると、楚の吾得が兵を率いて秦と共に鄭(韓)を攻め、綸氏を包囲しました。『古本』は東周赧王十一年(前304年)に書いています。
次回に続きます。