戦国時代49 東周顕王(十七) 蘇秦登場 前333年(1)

今回は東周顕王三十六年です。三回に分けます。
 
顕王三十六年
333年 戊子 
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年、秦が陰晋の人(魏人。『六国年表』では「徐晋人」)犀首を大良造に任命しました。
犀首は官名で、姓は公孫、名は衍といいます。
 
[] 楚王が斉を攻めて徐州を包囲しました。
これは『資治通鑑』と『史記田敬仲完世家』『六国年表』の記述です。
 
史記楚世家』によると、斉の田嬰孟嘗君田文の父)が楚を欺いたため、楚威王が斉を討伐して徐州で斉軍を破りました。
田嬰と楚の間で具体的に何があったのかはわかりません。『史記集解』は前年、斉が越に楚を攻撃させたことを指すと注釈しています。
また、『孟嘗君列伝』は「田嬰が斉相になってから、斉宣王と魏襄王が徐州で会して王を称したため、それを聞いた楚王は田嬰に対して激怒し、翌年、斉を攻めた」としています。
 
『楚世家』に戻ります。
楚は斉に田嬰の追放を要求しました。田嬰がこれを憂慮すると、張丑が田嬰のために遊説し、楚王にこう言いました「王が徐州で勝てたのは、斉が田盼子(田嬰の同族)を用いなかったからです。盼子は斉国において功があり、百姓(民衆)も彼に帰心しています。今は嬰子(田嬰)が無能なので申紀を用いていますが、申紀は大臣も百姓も服していません。だから王は勝てたのです。王は嬰子を駆逐させようとしていますが、嬰子が追放されたら必ず盼子が用いられます。その結果、斉は士卒を整えて再び王に対抗するでしょう。これは王にとって利になりません。」
楚王は要求を取り下げました。
 
このように『史記』『資治通鑑』は楚が越を滅ぼしてから(前年)斉を攻めて徐州を包囲したとしていますが、『今本竹書紀年』は本年に「楚が斉の徐州を包囲し、更に越を討伐して無疆を殺した」と書いています。
 
[] 韓の高門(前年参照)が完成しましたが、昭侯が死にました。在位年数は二十六年です。
子の宣恵王(『竹書紀年』では「威侯」「宣王」)が即位しました。
 
『古本竹書紀年』は「韓昭侯の時代は戦が頻繁に起きた(兵寇屢交)」と書いています。
但し昭侯は賢臣・申不害を用いた国君でもあります。申不害の改革だけでは、韓が他の強国に匹敵する力を有すことはできなかったようです。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が魏の黄を包囲しましたが、攻略できませんでした。
趙は長城を築きました。この長城は漳水の北に位置し、趙の南界で魏斉を防いだようです。
 
[] かつて洛陽の人蘇秦が秦王に天下を兼併する術を説きました。
資治通鑑』胡三省注によると、蘇氏は己姓から生まれました。顓頊の後世に呉回という者がおり、陸終を生みました。陸終は昆吾を生み、昆吾は蘇に封じられました。西周時代には蘇公がいます。蘇氏はここから生まれました。
 
戦国時代も中期に入り、商鞅の変法改革に成功した秦が大きく成長しました。その結果、諸国間で二つの流れが生まれます。
一つは連衡(連横)、もう一つは合従です。
連衡とは東方の列国が西方の秦と同盟する策です。秦と同盟した国はそれ以外の国を攻め、強国秦の庇護下に入って勢力を拡大するというのが連衡の主旨です。
合従(この「従」は「縦」の意味です)は連衡の逆で、東方の列国が縦に同盟して西方の強国秦に対抗するという策です。
 
蘇秦はもともと連衡を主張して秦に入りました。
しかし秦では魏から来た商鞅が処刑されたばかりです。秦恵王は他国の弁士を信用できず、蘇秦の策を拒否しました。秦での仕官に失敗した蘇秦は家に帰ります。
この時の事を『戦国策秦策一』はこう書いています。
蘇秦は秦王に十回以上の上書を行いましたが、秦王は採用しませんでした。黒貂の服は破れ、黄金百金の資産も使い果たし、秦に滞在する費用がなくなったため、やむなく秦を去って故郷の周に向かいます。草鞋を履き、脚に布を巻き、書籍を背負い、荷物を担いで歩く様子は、枯れ木のように精気がなく、顔は憔悴して黒ずみ、失意の面持ちでした。
やっと家に着きましたが、妻は機織りの手を止めることなく夫の帰りを無視しました。嫂も蘇秦の食事を作らず、父母も口をきこうとしません。遊説に明け暮れて家業をせず、資金を使い果たした蘇秦に愛想を尽かしているからです。
蘇秦が言いました「妻が私を夫と見なさず、嫂が私を叔と見なさず、父母が私を子と見なさないのは、全て秦国のせいだ(是皆秦之罪也)。」
その夜、蘇秦は数十もある書箱から太公西周の太公姜尚)が著したという『陰符』を見つけました。蘇秦は机に臥して読書に励み、『陰符』に書かれた要点を習熟します。もし途中で眠くなったら錐で自分の脚を刺して目を覚まさせました。血が足まで流れましたが、蘇秦はこう言いました「人主(国君)に遊説しながら金玉錦繍を得ることもできず、卿相の尊位に就くこともできないようではだめだ(多くの物を失って遊説をするのだから、成果を上げなければならない)。」
一年後、遊説の技を磨いたと信じた蘇秦は「これで当世の国君に遊説ができる」と言い、趙に向かいました。
 
史記蘇秦列伝(巻六十九)』の記述は少し異なります。蘇秦が秦に行く前の事から述べています。
蘇秦は東周雒陽の人で、かつて東方の斉に行って鬼谷先生に学びました。
史記索隠』は蘇秦の字を季子とし、蘇忿生の子孫で己姓としています。また、蘇秦は五人兄弟で、蘇秦が最年少だったという説も載せています。蘇秦の兄弟は上から蘇代、蘇厲、蘇辟、蘇鵠です。但し、蘇代は蘇秦の弟ともいわれています。その場合は恐らく蘇秦が最年長になります。
鬼谷先生というのは戦国時代の縦横家(各地で合従連衡を説く遊説家)で、鬼谷は地名です。
 
蘇秦は斉で遊学しましたが、数年後に困窮して故郷に帰りました。兄弟も嫂も妹も妻妾も蘇秦を嘲笑してこう言いました「周人の俗(習慣)は、産業に勤めて工商に力を尽くし、十分の二の利益を得ることを生業とするものです。しかしあなたは本業を棄てて口舌で事を成そうとしています。困窮するのは当然でしょう。」
これを聞いた蘇秦は慚愧し、深く傷ついて部屋に閉じこもりました。しかし工商業に就くのではなく、一層読書に励みます。蘇秦は自分の蔵書を全て読み直してこう言いました「士が既に頭を下げて書を受けたのに(師に教えを請うたのに)、それによって尊栄を得ることができないようでは、たとえ多くの書を読んだとしても意味がない。」
やがて、蘇秦は周書西周時代の書籍)の『陰符』を得ました。机に伏してそれを熟読します。
一年後、蘇秦は書中の真理を習得してこう言いました「これで当世の国君に遊説できる。」
蘇秦は早速、周顕王に謁見しました。しかし顕王の近臣はかねてから蘇秦を知っており、蘇秦の知識が浅いと思って軽視していたため、顕王は蘇秦を用いませんでした。
 
蘇秦は西の秦に行きました。秦では孝公が死んだばかりです。
蘇秦が恵王に言いました(以下、『史記蘇秦列伝』からの引用です。『戦国策・秦策一』には蘇秦の言葉が更に詳しく書かれていますが、省略します)「秦は四方が険阻な地形に囲まれた国です。周辺には山があり、渭水が流れ、東には関(函谷等の関)と河黄河が、西には漢中が、南には巴蜀が、北には代馬(代の地の馬。代は良馬の産地)があります。これは天府の地(天然の府庫。土地が肥沃で食糧物資が豊富な土地)というべきです。秦の士民の衆(豊かな兵民)と兵法の教(兵法による教習。訓練された兵)を用いれば、天下を併呑して帝を称すこともできます。」
しかし秦王はこう言いました「毛羽(羽毛)が生えそろっていなければ高く飛ぶことはできない。文理(道徳教化)が明らかでなければ天下を兼併することはできない。」
秦は商鞅を殺したばかりだったため、弁士を警戒していました。
蘇秦は秦を去って東の趙に行きました。
 
このように、『戦国策』の蘇秦は秦で用いられなかったために発憤して『陰符』を習得しましたが、『史記蘇秦列伝』では周で用いられなかったために発憤して『陰符』を習得し、その後、秦に行き、更に趙に向かっています。
また、『史記蘇秦列伝』では、秦を去った蘇秦はまず趙に行きましたが、趙の奉陽君(趙粛侯の弟・趙成。趙の国相)に気に入られなかったため燕に行き、燕の使者として再び趙に入ります。
しかし『資治通鑑』では秦から直接燕に行き、その後、趙に行ったとしています。以下、『資治通鑑』からです。
秦王が蘇秦の言を用いなかったため、蘇秦は秦を去って燕文公にこう言いました「燕が秦の甲兵に侵されないのは、趙が南の壁になっているからです。秦が燕を攻めるには、(秦国の)千里の外で戦わなければなりませんが、趙が燕を攻めたら(趙国の)百里内での戦いになります。百里の患を憂いず、千里の外を尊重するようなら(隣国である趙の侵攻を心配せず、遠国の秦と親しくするのなら)、これ以上に誤った計はありません。大王は趙と親しくし、天下(燕と趙)を一つにするべきです。それができれば燕国には患がなくなります。」
燕文公はこれに従い、蘇秦に車馬を与えて趙粛侯を説得させることにしました。
 
史記燕召公世家』『六国年表』はこれを前年の出来事としています。燕文公は蘇秦に車馬金帛を与えて趙に派遣しました。
 
 
 
次回に続きます。