戦国時代50 東周顕王(十八) 張儀登場 前333年(2)
今回は東周顕王三十六年の続きです。蘇秦の故事を書いています。
蘇秦が趙粛侯に言いました「今の世において、山東(崤山以東)に建つ国では趙より強い国はなく、秦が最も警戒している国も趙の他にありません。しかし秦が兵を挙げて趙を攻撃しようとしないのは、韓と魏が背後を襲う恐れがあるからです。秦が韓と魏を攻めたら、両国には名山大川の守りがないので、蚕食(少しずつ侵食すること)して国都に至るでしょう。韓と魏は秦を支えることができず、必ず秦に臣従します。秦に韓と魏の規(制限。脅威)がなくなったら、禍は趙に至ります。臣が天下の地図を見たところ、諸侯の地を合わせれば秦の五倍もあり、諸侯の士卒を合わせれば秦の十倍にもなります。六国が一つになり、力を合わせて西の秦を攻めれば、秦は必ず敗れます。衡人(連衡を主張する説客)は諸侯の地を割いて秦に与えようとしていますが(秦に土地を譲ることで秦と講和するように勧めていますが)、そう主張するのは秦の覇業が完成した時に彼等が富栄を手にできるからです。諸国が秦の禍患を受けても、彼等がそれを憂いとすることはありません。だから衡人は日夜秦の権勢を利用して諸侯を脅し、地を割くように求めているのです。これらの事をふまえて、大王の熟考を期待します。大王のために計るとしたら、韓、魏、斉、楚、燕、趙が和親して秦に対抗するべきです。天下の将相を洹水の上に集めて会し、質(人質)を交換して盟を結び、こう約束します『秦が一国を攻めたら五国がそれぞれ鋭師を動員し、あるいは秦を攻め、あるいは他国を救うこと。もし盟約に背く者がいたら、五国が共に伐つ。』諸侯が和親して秦に対抗すれば、秦甲(秦兵)が函谷関を出て山東を害すことはできなくなります。」
喜んだ趙粛侯は蘇秦を厚遇し、豊富な賞賜を与えて諸侯との盟約を手配させました。
ちょうどこの頃、秦が犀首(官名。公孫衍)に魏を攻撃させました。四万余の魏軍が大敗し、魏将・龍賈(『資治通鑑』胡三省注によると、龍氏は龍伯氏、または御龍氏から生まれました)が捕らえられ、雕陰が占領されます(東周顕王三十八年・前331年に再述します)。
秦は更に東進しようとしました。
蘇秦は秦軍が趙に迫って合従の盟約を妨害することを心配しましたが(秦が趙を撃破し、趙が秦と講和してしまったら、合従は失敗に終わります)、使者として秦に送る人材がいません。そこで張儀を激発して秦に向かわせることにしました。
それを見届けた蘇秦の舍人が張儀に言いました「蘇君は秦が趙を攻めたら盟約の邪魔になると憂いており、あなたでなければ秦を操ることができないと考えてわざとあなたを怒らせました。その後、臣を派遣して秘かにあなたを援けさせました。全て蘇君の計謀によるものです。」
張儀が言いました「私は術中にいながら悟ることができなかった。私が蘇君に及ばないのは明らかだ。私に代わって蘇君に謝意を伝えてほしい。蘇君がいる間は、儀が敢えて発言することはない。」
後に学問を身に着けた張儀は諸侯を遊説しました。
ある時、楚の相に従って酒宴に同席しました。酒がまわってから、楚相が玉璧を失ったことに気づきます。門下(楚相の門客)が張儀を疑ってこう言いました「儀は貧しくて品行も劣るので、相君の璧を盗んだのは彼に違いありません。」
すると張儀は妻にこう言いました「わしの舌はまだあるか?」
妻が笑って言いました「舌はまだあります。」
数日後、蘇秦がやっと張儀を接見しましたが、張儀を堂下に座らせ、僕妾(奴隷)の食事を与えました。しかも蘇秦は張儀を譴責してこう言いました「子(汝)の材能(能力)がありながら自らをこのような困辱の中に置いている。わしが子を推挙して富貴を与えてやるのは当然のことだ。しかし子は用いるに足らない(能力がありながら発揮できないのなら使い物にならない)。」
張儀は秦に向かいました。
暫くして、蘇秦が舍人(門人。近臣)に言いました「張儀は天下の賢士であり、私は彼に及ばない。今、私は幸いにも先に用いられたが、秦の政柄を握ることができるのは張儀だけだろう。しかし貧困では仕官の道がない。私は彼が小利に満足して大事を成せなくなることを心配して、敢えて辱め、彼の意志を激発させたのだ。子(汝)は私のために秘かに彼を助けよ。」
やがて、張儀は財物を使って秦恵王に謁見する機会を得ました。
恵王は張儀の能力を認めて客卿とし、共に諸侯の討伐を謀るようになります。
張儀が重用されたのを見届けて、蘇秦の舍人は秦を去ることにしました。張儀が言いました「子(あなた)のおかげで顕貴な地位を得ることができました。これから徳(恩)に報いようと思っていたのに、なぜ去るのですか?」
舍人が言いました「臣があなたを知っているのではありません(理解しているのではありません)。あなたを知っているのは蘇君です。蘇君は秦が趙を攻めて従約(合従の盟約)が破られることを心配しており、また、秦の政柄を握るのはあなたしかいないと思ったので、わざとあなたを怒らせてから、秘かに臣を送ってあなたを助けさせたのです。全て蘇君の計謀によるものです。今、あなたは既に重用されることになりました。だから帰って報告するのです。」
張儀が嘆息して言いました「これは私が学んできた術であるのに、私は悟ることができませんでした。私が蘇君に及ばないのは明らかです。そもそも私は用いられたばかりなので、趙との戦いを謀ることはできません(趙攻撃に利があるとしても、進言はできません)。私のために蘇君に謝意を伝えてください。蘇君がいる間は、儀(私)が(趙攻撃に関して)語ることはありません。そもそも、蘇君がいる間は、儀にできることはありません。」
後に秦の相になった張儀は檄文を楚相に送ってこう伝えました「私が汝に従って酒を飲んだ時、汝は私を璧を盗んだ賊と見なして鞭打った。汝はしっかり汝の国を守れ。私は汝の城を盗みに行く。」
この後、楚は秦の手玉に取られて衰弱していくことになります。
次回に続きます。