戦国時代51 東周顕王(十九) 蘇秦の合従 前333年(3)

今回で東周顕王三十六年が終わります。
 
[(続き)] 『資治通鑑』から蘇秦の記述に戻ります。
秦が趙を攻撃することはないと判断した蘇秦は、韓宣恵王に会ってこう言いました「韓の地は四方九百余里に及び、甲士は数十万を擁し、天下の強弓、勁弩、利剣は全て韓から出ています。韓卒が足で弩を踏んで弦を引き、矢を射れば、百発続けて射ても止むことがありません。韓卒の勇をもって堅甲を身に着け、勁弩を踏み、利剣を帯びれば、一人で百人の敵に匹敵することは言うまでもありません。大王が秦に仕えれば(秦と講和すれば)、秦は必ず宜陽(秦と接しており、秦が函谷関を出た時の妨げとなります)と成皋(虎牢関がある場所です)を要求し、今回それを満足させたら、翌年にはまた他の地の割譲を要求してきます。これを繰り返したら与えられる土地がなくなり、与えるのをやめたら前功を棄てて後禍を受けることになります。大王の地には限りがありますが、秦の要求には限りがありません。限りがある地で限りがない要求に対応していたら、怨を買って禍を招き、戦わずに地を削ることになります。こういう鄙諺(俗語)があります『鶏の口になることはあっても、牛の尻尾になるべきではない(寧為雞口,無為牛後)。』大王の賢があり、強韓の兵を擁しているのに、牛後(牛の尻尾)の名を得なければならないのなら、臣は大王のために恥ずかしく思います。」
韓王は蘇秦の言に従うことにしました。
 
蘇秦は魏王に会いに行きました。
蘇秦が言いました「大王の地は四方千里なので表面上は大きくありません。しかし田舍廬廡(村落の家屋)の数は芻牧(芻は草を刈ること。牧は放牧)の場所もないほど豊富です。多数の人民と車馬は日夜道に絶えることがなく、三軍の大衆がいるようににぎやかです(輷輷殷殷)。臣が大王の国を量ったところ、国力は楚にも劣りません。また、大王の兵卒は武士二十万、蒼頭(青い頭巾を被った兵。恐らく奴隷)二十万、奮撃(精鋭)二十万、廝徒(雑役苦力の兵)十万がおり、車六百乗、騎(馬)千頭を擁しています。それなのに群臣の意見を聴いて秦に臣事しようとしているので、敝邑(趙国)の趙王が盟約を結ぶために臣(私)を派遣して愚計を献上させました。大王の決断にかかっています。」
魏王も同意しました。
 
蘇秦は斉王に会いに行きました。
蘇秦が言いました「斉は四塞の国(四方が険阻な地形で守られた国)で、その地は四方二千余里に及び、甲兵は数十万を数え、粟(食料)は丘山のように積まれています。三軍の良(精鋭)と五家(五都。五つの大きな県邑)の兵は鋒矢(鋭い矢)のように進み、雷霆のように戦い、風雨のように解散できます。たとえ軍役(戦)があっても彼らがいるので泰山、清河、渤海まで兵を集めに行く必要はありません。臨淄(斉都)の中には七万戸があり、臣が見たところ、一戸あたりの男子は三人を下らないので、遠県の兵を徴収しなくても臨淄の卒だけで二十一万人が集められます。また、臨淄は豊かに繁栄しており、民は皆、闘鶏、走狗、六博(将棋のような駒を使った局戯)、闒鞠(蹴鞠)を楽しんでいます。臨淄の道では、車轂(車輪の中央についた車軸をはめる部分)がぶつかり合い、人々の肩がこすれ、袵(襟。服)を連ねれば帷幕となり、汗を振り払えば雨になるほどです(人口が多い喩えです)
韓と魏が秦を畏れて慎重なのは、両国が秦と国境を接しており、兵を出して対立したら十日も経たずに戦いが始まって勝敗存亡の機が決してしまうからです。韓と魏が秦と戦って勝ったとしても、兵の半数は損ない、四境の守りが難しくなります。もし戦って勝てなかったら、国に危亡の禍が訪れます。だから韓と魏は秦との戦いを重く視て慎重になり、軽率に臣従しているのです。しかし秦が斉を攻める場合は異なります。秦は韓と魏の地を後ろにし、衛の陽晋の道を通り、険要な亢父を経由しなければなりません。そこは車が方軌(並行)できず、騎(馬)も比行(並行)できない場所なので、百人が険を守っていれば千人の兵力があっても通れません。秦は斉に深入りしたくても狼顧(狼のように後ろを警戒すること)しなければならず、韓と魏に後ろを衝かれることを警戒する必要があるので、斉に対して恫疑、虚喝、驕矜(脅したり強がること)したとしても、斉の本土に進行しようとはしません。秦に斉を害す力がないのは明らかです。それなのに秦が斉に手を出せない状況を深く考えず、西を向いて秦に仕えようとするのは、群臣の計の過ちです。秦に臣事するという不名誉な名をこうむることなく、強国の実態を保つために、臣が大王にささやかな計を残そうと思います。」
斉王も蘇秦の合従に同意しました。
 
蘇秦は西南に移動し、楚威王に言いました「楚は天下の強国で、その地は四方六千余里に及び、甲兵は百万、車は千乗、騎(馬)は万頭を擁し、粟(食糧)は十年を支える蓄えがあります。これは覇王の資(資本)です。秦が楚以上に畏れる国はありません。楚が強くなれば秦が弱くなり、秦が強くなれば楚が弱くなるので、二国は両立できない形勢にあります。よって大王のために計を献上します。楚は各国と親しくして秦を孤立させるべきです。臣は山東の国に命じて四時(四季)の献(貢物)を納めさせ、大王の明詔(秦と対抗する命令)を受けさせることができます。また、各国が大王に社稷と宗廟を委ね、士兵を鍛えて大王の指揮下に入るようにすることもできます。諸侯と親しくすることで諸侯が楚に地を割いて仕えるのと、秦と衡合(横と結ぶこと。連衡)することで楚が地を割いて秦に仕えるのとでは、両策の間に大きな差があります。大王はどちらを選ぶつもりですか?」
楚王も蘇秦の計に同意しました。
 
こうして蘇秦は従約(合従の盟約)の長となり、六国の相を兼務することになりました。
北の趙に帰る時、蘇秦に従う車騎や輜重は国君に匹敵するほどの数になりました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記蘇秦列伝(巻六十九)』は「趙粛侯が帰国した蘇秦を武安君に封じた」としています。
また、『蘇秦列伝』には、「蘇秦の合従のおかげで、秦兵は十五年間にわたって函谷関から東を窺うことができなくなった」とありますが、実際には翌年に合従が崩されます。
 
『戦国策秦策一』に、楚に向かった蘇秦が洛陽の家の前を通った時の事が書かれています。
楚に向かう蘇秦が洛陽を通ることになりました。それを知った父母は家の片づけをして道を清め、音楽を演奏して酒宴を開きました。郊外三十里まで蘇秦を出迎えに行きます。
妻は蘇秦を正視することができず斜めから様子を窺い、耳をそばだてて蘇秦の言葉を聞きました。恐縮した嫂は蛇のように地を這って進み、四拝して過去の無礼を謝罪しました。
蘇秦が問いました「嫂は以前はあのように驕慢だったのに、今はなぜ卑屈になっているのですか?」
嫂が言いました「季子蘇秦の位が尊貴になり、財産も豊かになったからです。」
蘇秦は嘆息してこう言いました「貧窮になれば父母も自分の子と見なさないのに、富貴になれば親戚でも畏惧するものなのか。人がこの世で生きる限り、勢位(権勢)と富貴は疎かにできないものだ。」
 
史記蘇秦列伝』はこれを楚から趙に帰る時の事としています。
蘇秦が趙王に報告するために北上しました。途中で雒陽を通ります。多数の車騎が輜重を運び、諸侯が派遣した使者も次々に駆けつけ、王者の行列のようでした。
それを聞いた周顕王は恐れて道を清め、郊外に人を送ってねぎらいます。
蘇秦の兄弟や妻、嫂は蘇秦を正視できず、地に伏して食事を共にしました。蘇秦が笑って嫂に言いました「以前はあのように驕慢だったのに、今はなぜ卑屈になっているのですか?」
嫂委は蛇のように地を這って前に進み、顔を地につけて謝罪しながら言いました「季子の位が高く、財産が多いからです。」
蘇秦が嘆息してこう言いました「一人の身において、富貴であれば親戚でも畏懼し、貧賎であれば親戚でも軽視する。衆人(他の者。親戚以外の者)ならなおさらだろう。当初もし私が雒陽近郊に二頃の田をもっていたら、六国の相印を身に着けることができただろうか。」
蘇秦は千金を宗族や朋友に分け与えました。
以前、蘇秦が燕に行った時、ある人から資金として百銭を借りました。富貴を得た蘇秦は百金にして返しました。
蘇秦は恩がある者には必ず報いましたが、一人の従者だけは報酬を得ませんでした。従者がそれを蘇秦に訴えると、蘇秦はこう言いました「子(汝)を忘れたわけではない。子は私と燕に至った時、易水の上で再三去ろうとした。あの時の私はとても窮乏していたから、子に対して深い恨みをもった。そのため子を最後にしたのだ。今から子も報酬を得ることができる。」
 
蘇秦は合従を推進した縦横家の代表ですが、謎が多い人物でもあります。戦国時代には蘇秦以外にも多数の縦横家が合従を説きました。それらの故事が集められて蘇秦の話として伝えられているともいわれています。
史記蘇秦列伝』も「蘇秦に関しては異なる逸話が多数残されている。蘇秦とは違う時代に起きた事も、類似の出来事は全て蘇秦の事として語り継がれている」と書いています。
 
[] 斉威王が死に、子の宣王辟彊が立ちました。
即位した宣王は田忌の出奔(東周顕王二十八年341年)が成侯鄒忌によるものだと知り、斉に呼び戻しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記田敬仲完世家』では、威王は十年前の東周顕王二十六年(343)に死んでおり、在位年数は三十六年になっています。
また、田忌の出奔と帰国も馬陵の戦いの前としています(東周顕王二十八年341年参照)
 
[] 燕文公が在位二十九年で死に、太子が即位しました。易王といいます。
 
史記燕召公世家』によると、燕易王が即位したばかりの時、斉宣王が燕の喪に乗じて進攻し、十城を奪いました。しかし蘇秦の説得によって斉は十城を返還しました。
資治通鑑』はこれを翌年に書いています(再述します)
 
[] 衛成侯が在位二十九年で死に、子の平侯が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。