戦国時代52 東周顕王(二十) 合従の崩壊 前332~328年

今回は東周顕王三十七年から四十一年までです。
 
顕王三十七年
332年 己丑
 
[] 秦恵王が犀首を派遣して斉と魏を脅し、共に趙を攻撃させました。
早くも蘇秦の従約(合従の盟約)が破られます。
 
趙粛侯が蘇秦を譴責しました。恐れた蘇秦は裏切った斉に報復するためという理由で、使者として燕に行くことを希望します。こうして蘇秦が趙を去ったため、従約は完全に壊滅しました。
 
趙人は河水黄河を決壊させて斉魏の兵を水攻めにしました。
斉と魏は兵を還しました。
 
『古本竹書紀年』に「斉が趙の東鄙を攻めて中牟を包囲した」という記述がありますが、この時の戦いを指すのかどうかはわかりません。
 
[] 魏が陰晋の地を割いて秦と講和しました。
 
陰晋は華陰ともいいます。『資治通鑑』胡三省注によると、華陰は秦と晋の境にあり、晋の西辺を陰晋、秦の東辺を寧秦とよんだようです。または、華陰の旧名を陰晋といい、秦恵文王五年(前年。東周顕王三十六年333年)に寧秦に改名し、西漢高帝(高祖劉邦が華陰県に改めたともいいます。華山の陰(北)に位置します。
 
史記秦本紀』『六国年表』は胡三省注と異なり、本年に魏が陰晋を秦に譲り、秦が陰晋を寧秦に改名したとしています。『資治通鑑』本文でも本年に魏が陰晋を秦に譲ったのは本年なので、胡三省注の誤りかもしれません。
 
[] 斉王が燕を攻めて十城を取りましたが、暫くして燕に返還しました(前年参照)
この時の事が『史記蘇秦列伝(巻六十九)』に詳しく書かれています。
秦恵王は娘を燕の太子に嫁がせていました。
前年、燕文侯が死に、太子が即位しました。これを燕易王といいます。
易王が即位したばかりの時、斉宣王が燕の喪に乗じて兵を動かし、十城を奪いました。
易王が蘇秦に言いました「かつて先生が燕に来た時、先王は先生を援けて趙に行かせ、六国に合従を約束させた。しかし斉は趙を攻め、今回、燕にも至った。燕は先生のために天下の笑い者になっている。先生は燕のために侵された地を取り返すことができるか?」
蘇秦は慚愧して「王のために取り返してきます」と答え、斉に向かいました。
 
斉王に会った蘇秦は再拝してから腰を曲げて祝賀し、顔を上げて哀悼しました。
斉王が問いました「なぜ慶弔(祝賀と哀悼)の入れ替わりがそのように速いのだ?」
蘇秦が答えました「飢人はたとえ飢えても烏喙(毒のある植物)を食べないといいます。それを食べて腹を満たしたら、餓死と同じ患(禍)を招くからです。今の燕は弱小ですが、秦王の少壻(婿)にあたります。大王は十城を奪って利を得ましたが、強秦との間に長久の怨仇を作ることになりました。弱小の燕が雁行していますが(雁の群れが飛んでいるように燕国は恰好の獲物となっていますが)、その後ろには強秦が隠れているのです。もし秦が天下の精兵を集めたら、烏喙を食べるのと同じことになるでしょう。」
斉王が突然顔色を変えて「それではどうするべきだ?」と問いました。
蘇秦が言いました「古でうまく事を制した者は、禍を転じて福となし、失敗を通して功をなしたものです。大王が臣の計を聞くつもりがあるのなら、燕に十城を還すべきです。理由もなく十城を得た燕は必ず感謝します。秦王も自分のおかげで十城が燕に返されたと知ったら必ず喜びます。これこそ仇讎を棄てて石交(固い友誼)を得るというものです。このおかげで燕と秦が斉に帰心すれば、大王が天下に号令した時、逆らう者は誰もいません。王は虚辞(実体のない言葉)によって秦に附く形を見せ、実際には十城によって天下を取ることができます。これが霸王の業です。」
斉王は「善し」と言って十城を燕に還しました。
 
 
 
翌年は東周顕王三十八年です。
 
顕王三十八年
331年 庚寅
 
[] 『史記秦本紀』によると、この年、秦の公子卬が魏と戦い、魏将龍賈を捕らえて八万人を斬首しました。
『今本竹書紀年』も本年に「魏の龍賈が秦と雕陰で戦い、魏が破れた」としています。
しかし『魏世家』は翌年に「秦が魏の龍賈軍四万五千人を雕陰で破った」と書いており、『資治通鑑』は東周顕王三十六年(前333年。二年前)に「四万余の魏軍が大敗し、魏将龍賈が捕えられ、雕陰が占領された」としています。
 
[] 『史記六国年表』によると、義渠(戎族)で内乱が起きました。
しかし秦の庶長(操は人名)が兵を率いて義渠の内乱を平定しました。
 
[] 『今本竹書紀年』は本年に「魏王が鄭威侯と巫沙で会した」としています。
『古本竹書紀年輯校訂補』によると、鄭威侯は韓の宣王(宣恵王)を指し、巫沙の会は東周顕王四十二年(前327年)の出来事としています。
 
 
 
翌年は東周顕王三十九年です。
 
顕王三十九年
330年 辛卯
 
[] 『史記魏世家』は本年に「秦が魏の龍賈軍四万五千人を雕陰で破った」と書いています(前年参照)
 
[] 秦が魏を攻めて焦と曲沃を包囲しました。
魏は少梁と河西の地を秦に譲りました。
 
河西の地に関しては東周顕王二十九年(前340年)にも秦に譲るという記述がありました。「二十九年」と「三十九年」のどちらかが誤りかもしれません。
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年に秦が魏の汾陰と皮氏を取ったとしています。
史記』『資治通鑑』は翌年に書いています。
 
 
 
翌年は東周顕王四十年です。
 
顕王四十年
329年 壬辰
 
[] 秦が魏を攻めて黄河を渡り、汾陰と皮氏(旧耿国)を取りました。また焦を占領しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。
史記秦本紀』には「秦が黄河を渡って汾陰と皮氏を取る。魏王と応(地名。『正義』によると旧応国。応国は西周武王の子が封じられた国です)で会す。焦(『正義』によると旧焦国。焦は西周武王が神農の子孫を探して封じた国ですが、後に姫姓の者が改めて封じられたようです。晋に滅ぼされました)を包囲して降す」とあります。
しかし『魏世家』は「魏が秦と応で会す。秦が魏の汾陰、皮氏、焦を取る」としており、順番が逆になっています。
 
『六国年表』を見ると、秦の欄は焦を降してから魏と応で会したと書き、魏の欄は応で会してから秦が汾陰と皮氏を取ったとしています。
秦と魏の会見がいつ行われたのかはっきりしません。
また、『史記』も『資治通鑑』もここでは触れていませんが、秦が焦を取った時、魏の曲沃も占領したようです。二年後に秦が焦を返還しますが、曲沃も一緒に魏に返されます。
『今本竹書紀年』は前年に「秦が魏の汾陰と皮氏を取った」と書いています(前年参照)
 
[] 楚威王が在位十一年で死に、子の槐が立ちました。懐王といいます。
 
史記楚世家』によると、魏が楚の喪に乗じて南下し、楚の陘山を取りました。
『六国年表』にも「魏が陘山で楚を破った」とあります。
 
[] 宋公剔成の弟偃が剔成を襲いました。剔成は斉に奔り、偃が自立して宋君になりました。
偃は後に王を称し、康王とよばれます。
 
 
 
翌年は東周顕王四十一年です。
 
顕王四十一年
328年 癸巳
 
[] 秦の公子・華(または「公子・桑」)張儀が兵を率いて魏の蒲陽を包囲し、占領しました。
 
張儀が秦王に言いました「蒲陽を魏に返し、公子繇を質(人質)として魏に送るべきです。」
秦王は同意しました。
そこで張儀が使者として魏に行き、魏王にこう言いました「秦はこのように魏を厚く遇しています。魏は秦に対して無礼であってはなりません。」
魏は上郡十五県を秦に譲って謝意を示しました。
 
張儀は秦に帰国して相に任命されました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙の趙疵が秦と戦って敗れました。秦は河西で趙疵を殺し、趙の藺と離石を奪いました。
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年に「秦が魏に焦と曲沃を還した」と書いています。『史記』『資治通鑑』は翌年に書いています。
 
 
 
次回に続きます。