戦国時代53 東周顕王(二十一) 秦の称王 前327~325年

今回は東周顕王四十二年から四十四年までです。
 
顕王四十二年
327年 甲午
 
[] 秦が義渠西戎に県を置き、その君を臣にしました。
 
これは『史記秦本紀』『六国年表』および『資治通鑑』に書かれています。
西戎の国義渠が秦に臣従したため、秦はその地に県を置きました。四年前の東周顕王三十八年(前331年)に秦が義渠の内乱を平定しました。その時から義渠は秦に従っていたのかもしれません。
但し、東周慎靚王三年(前318年)には義渠が秦を攻撃するので、完全に支配下に置くことはできなかったようです。
 
[] 秦が焦と曲沃を魏に返しました(『今本竹書紀年』は前年の事としています)
資治通鑑』胡三省注は「秦にとって魏は掌股の上で嬰児を弄ぶようなものだ」と書いています。
 
[] 『史記秦本紀』によると、この年、秦が少梁を夏陽に改名しました。
 
[] 『史記趙世家』によると、韓挙(『史記集解』によると韓の将です)が斉魏と戦い、桑丘で死にました。
『韓世家』と『六国年表』は二年後の事としています(再述します)
 
[] 『古本竹書紀年』によると、威侯七年(『古本竹書紀年輯校訂補』は、威侯は韓の宣王、宣恵王としています。また、威侯七年は六年の誤りのようです。年表参照)、韓が邯鄲(趙)と共に魏の襄陵を包囲しました(『今本』は東周顕王三十三年336年に書いています)
五月、梁恵王が威侯と巫沙で会しました(『今本』は東周顕王三十八年・前331年に書いています)
十月、鄭(韓)宣王(威侯。『竹書紀年』の記述を見ると、五月には威侯だったのが十月は宣王になっているので、韓はこの年に王を名乗ったようです)が梁(魏)を朝見しました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、九鼎が泗水に落ちて淵の深くに沈みました。
九鼎は天下を象徴する周王室の宝器です。しかし『今本竹書紀年』の記述だけでは詳細がよくわかりません。
 
史記封禅書』には「秦が周を滅ぼし、周の九鼎が秦に入った」という記述がありますが、併せてこうも書かれています「あるいは、宋の太丘社(太丘は地名。土地神の社)が崩れ、鼎が彭城下の泗水に沈んだ。その百十五年後に秦が天下を統一した」。
秦が天下を統一するのは前221年なので、本年からは百六年の時間があります。
宋の太丘の社が崩れたという出来事は東周顕王三十三年(前336年)に書きました。そこから数えると秦の統一までちょうど百十五年になります。
 
 
 
翌年は東周顕王四十三年です。
 
顕王四十三年
326年 乙未
 
[] 趙粛侯が在位二十四年で死に、子の雍が立ちました。これを武霊王といいます(但し即位時はまだ王を名乗っていません。便宜上、諡号を使って武霊王と書きます)
 
武霊王は三人の博聞師(国君が学術等を問う官)と三人の左右司過(諫議の官)を置きました。
また、即位後に先君の貴臣肥義(『資治通鑑』胡三省注によると、肥氏は肥子の子孫で、国名を氏にしました)を訪ねて秩禄を増やしました(翌年再述します)
 
史記趙世家』によると、秦、楚、燕、斉、魏がそれぞれ鋭師(精鋭)一万人を派遣して趙粛侯の葬儀に参加させました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が初めて臘を行いました。臘は冬十二月の祭祀ですが、辺境の秦では今まで行われていませんでした。
『六国年表』には「龍門で会す(会龍門)」とあります。龍門で臘祭の会が開かれたのかもしれません。
 
 
 
翌年は東周顕王四十四年です。
 
顕王四十四年
325年 丙申
 
[] 『史記・趙世家』からです。
前年即位した趙武霊王が、陽文君趙豹を相に任命しました。
(魏)襄王と太子(「嗣」は襄王の名なので、『趙世家』の誤りです。あるいは、「襄王」が誤りで「恵王と太子・嗣」が正しいのかもしれません。『史記』では魏は襄王の時代になっていますが、『資治通鑑』等ではまだ恵王の時代です)および韓宣王と太子倉が趙の信宮に来朝し、武霊王の即位を祝賀しました。
 
武霊王はまだ若くて自ら政治を行う能力がなかったため、博聞師を三人、左右の司過を三人置きました。政治を行う時には、まず先王の貴臣肥義に意見を求めることにし、その秩禄を増やしました(資治通鑑』は前年に書いています)
また、国内の三老(徳がある老人)で八十歳以上の者には、毎月礼物を贈りました。
 
[] 『史記韓世家』と『六国年表』に「魏が韓の将韓挙を破った」とあります。『趙世家』は二年前に書いており、『魏世家』には記述がありません。
 
『古本竹書紀年』によると、この年、斉の田肦が邯鄲韓挙(下述)と平邑で戦い、邯鄲の師(趙軍)が破れ、韓挙が捕らえられました。平邑の新城(または「平邑と新城」)が斉に取られます。
 
資治通鑑外紀』は東周威烈王十六年(前410年)にこの戦いを書いており、『今本竹書紀年』は威烈王十六年(前410年)に『古本』と同じ内容を書いた後、東周赧王四年(前311年)にも「「魏が趙将韓挙を破った」と書いています。恐らく『資治通鑑外紀』と『今本竹書紀年』はどちらも誤りです。
 
斉が戦った相手を『古本竹書紀年』は「邯鄲韓挙」としており、「邯鄲」は趙の意味なので「趙の将韓挙」と読めます。しかし韓挙は韓の将のはずです。
上述の『史記趙世家』は二年前に「韓挙が斉魏と戦い、桑丘で死んだ」と書いており、『史記集解』は韓挙を「韓の将」と注釈しています(東周顕王四十四年325年参照)
よって、『古本竹書紀年』の「邯鄲韓挙」は「邯鄲(趙軍)と韓将・韓挙」という意味になります。
史記六国年表』には「魏が趙の趙護を破った」という記述もあります。趙の将は趙護という人物だったようです。
 
また、『古本竹書紀年』は斉と趙・韓の戦いとしていますが、『趙世家』の記述から斉は魏と連合していたことがわかります(『趙世家』が二年前に書いているのは恐らく誤りです)
 
以上を整理すると、斉と魏の連合軍が趙(邯鄲)と韓の連合軍と戦いました。斉の将は田肦、趙の将は趙護、韓の将は韓挙です。魏の将はわかりません。
両軍は平邑で戦い、趙韓連合軍が破れました。韓挙は捕まったか、桑丘で戦死したようです。あるいは捕まってから殺されたのかもしれません。
斉は平邑新城を取りました。
 
[] 夏四月戊午(初四日)、秦が初めて王を称しました。
史記六国年表』の秦の年表には「四月戊午,君為王」とあります。この「君」は「恵文君」のことです。『史記』は王位に即く前を「恵文君」、即位後を「恵文王」と書いています。
 
秦は商鞅の変法改革が成功し、急速に成長しました。
周を除くと、西周時代から王を名乗っていた楚、戦国時代に入って王を名乗った魏(東周顕王三十五年334年)に続く、四つめの王国の誕生です(呉・越やその他の辺境の国は除きます)
 
史記秦本紀』によると魏と韓も同じ頃に王を称したとしています(原文「恵文君十三年四月戊午,魏君為王,韓亦為王」)。しかし魏は既に王を称しているはずです。
『秦本紀』に出てくる「魏」は恐らく「秦」の誤りで、「恵文君十三年四月戊午,秦君為王,韓亦為王」が正しいはずです。
 
韓がいつ王を称したのかははっきりしません。
上述の通り、『史記秦本紀』ではこの時(東周顕王四十四年325年)、韓も同時に王になった(韓亦為王)と読めます。
史記周本紀』は東周顕王四十四年(本年)に「秦恵王が王を称し、この後、諸侯が皆、王になった」としており、具体的にいつ王を称したのかは書いていません。
『古本竹書紀年』では、東周顕王四十二年(前327年)に韓が王を名乗ったと考えられます(東周顕王四十二年・前327年参照)
 
史記六国年表(韓の欄)』を見ると、二年後の東周顕王四十六年(前323年)に「君為王(国君が王になる)」とあります。
史記楚世家』にも楚懐王六年(前323年)に韓が王を称したと書いてあります。
史記韓世家』は宣恵王十一年(前322年)に王を称したとしていますが、恐らく宣恵王十年(前323年)の誤りです。
東周顕王四十六年(前323年)には「五国相王(五国が互いに王を名乗る)」という出来事があり、韓もその時に王を名乗った、というのが一般的な解釈だと思います。『資治通鑑』も韓が王を称するのは東周顕王四十六年(前323年)の事としています。
 
但し、本年(東周顕王四十四年325年)に秦が王を名乗った時、秦は韓と連横するために韓の王位を認めた、ともいわれています。その場合は『史記秦本紀』が正しくなります。
中国国際広播出版社『戦国史話』も、申不害の改革が成功して強国になった韓が、他国に先駆けて秦と共に王を称した、と書いています。
あるいは、秦が王を称した時、秦だけが韓の王位を認め、他の諸国は二年後にそれぞれの王位を認め合ったのかもしれません。
 
[] 衛平侯が在位八年で死に、子の嗣君が立ちました。
史記衛康叔世家』の注(索隠)は『古本竹書紀年』の記述を引用して「嗣君は孝襄侯」と書いています。
 
この頃、衛の胥靡(軽刑を受けた囚人)が魏に逃亡しました。
胥靡は魏の王后の病を治したため、魏に匿われます。
それを聞いた衛嗣君は魏に人を送って五十金で胥靡を引き渡すように請いました。ところが使者が五回も往復したのに、魏はことごとく要求を拒否します。
そこで衛嗣君は左氏(地名)を魏に譲って交換することにしました。左右の近臣が諫めて言いました「一都(一つの大邑)で一胥靡を買うのはふさわしくありません。」
嗣君はこう言いました「子(汝)にわかることではない。治に小はなく、乱に大はないものだ(「治無小,乱無大」。政治を行うには小事も軽視してはならず、乱が起きる時は大事から始まるとは限らない)。法が立たず、誅が行われなかったら、十の左氏があっても無益だ。逆に法が立ち、誅が必ず行われるのなら、十の左氏を失っても害はない。」
魏王はこれを聞いて「人主の欲(望み)を聴かないのは不祥だ」と言い、胥靡を車に乗せて衛に送り返しました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の張儀が兵を率いて魏を攻め、陝を占領しました。
秦は陝の民を追い出して魏に返しました。
資治通鑑』と『六国年表』は翌年の事としています。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、魏恵王と韓昭侯、斉宣王が平阿で会しました。
韓昭侯は威侯(宣王)、斉宣王は威王の誤りのようです。
 
 
 
次回に続きます。