戦国時代54 東周顕王(二十二) 稷下の学士 前324年
今回は東周顕王四十五年です。
顕王四十五年
前324年 丁酉
易王は蘇秦が去ることに同意しました。
蘇秦は燕で罪を得たふりをして斉に奔ります。
斉宣王は蘇秦を信用して客卿にしました。
そこで蘇秦は宮室や苑囿を拡大して斉の地位と威信を明らかにするよう進言しました。斉の国力を削って燕に報いるためです。
また『資治通鑑』の記述では、蘇秦は斉宣王に進言していますが、『史記・田敬仲完世家』を見ると本年に斉宣王が死んで湣王が即位するため(下述)、『蘇秦列伝』では湣王に「宣王の厚葬を行って孝心を表し、宮殿や庭園を拡大して威徳を明らかにすべきです」と進言しています。
斉宣王は学者を愛しました。以下、『田敬仲完世家』からです。
宣王は文学遊説の士を好みました。騶衍、淳于髠、田駢(『史記正義』によると、田駢は斉人で、「天口駢」と号しました。『田子』二十五篇を書いたといわれています)、接予(『史記正義』によると接与も斉人で、『接予』二篇を残しました。道家に属します)、慎到(『史記正義』によると趙人で、戦国時代の処士です。『慎子』四十二篇を残しました)、環淵(『史記正義』によると楚人で、上下二篇の書を残しました)等の七十六人が邸宅を与えられ、上大夫に任命されます。但し彼等は政治に関与せず、日々、自分の学説の議論をして過ごしました。
その結果、斉には優れた学士が集まり、千人を数えるようになりました。この学士達を「稷下先生」「稷下の学士」といいます。「稷」というのは斉都の「稷門(城門の一つ)」を指します。学士達は稷門の下に集まって討論をしたため、こうよばれました。
[五] 『今本竹書紀年』はこの年に「楚が魏の襄陵を破った」としています。『史記』は翌年に書いています。
次回に続きます。