戦国時代56 東周顕王(二十四) 五国相王 前323年(2)

今回は東周顕王四十六年の続きです。
 
[] この年、韓と燕も王を称しました。
これは『資治通鑑』『史記六国年表』の記述です。
 
資治通鑑』によると、趙武霊王だけは王を称すことなく、「実がないのに虚名を名乗ることはできない」と言って、国人に自分を「君」と呼ばせました。
『趙世家』は趙武霊王のこの言葉を武霊王八年(東周慎靚王三年318)に書いています。
 
史記韓世家』は韓宣恵王十一年(翌年)に「国君の号を王にした」と書いていますが、「十一年」は恐らく「十年」の誤りです(東周顕王四十四年・前325年参照)
 
秦以外の国が王を名乗ったことに関して、『戦国策中山策』に「「五国相王」の話が載っています。「相王」というのは互いに王を名乗ってその地位を認め合うことです。
五王相王を提唱したのは犀首という縦横家の人物です。まずは『史記張儀列伝(巻七十)』から犀首の紹介をします。
犀首は魏の陰晋の人です。『史記集解』に「犀首は魏の官名」とあります。本名は衍といい、公孫氏です。
犀首は秦に仕えて大良造に任命されました(東周顕王三十六年333年)
犀首は同じ縦横家に属す張儀と対立しています。
張儀が秦のために魏に行き、魏王が張儀を相に任命しました(下述)。犀首はこれが自分にとって不利になると思い、韓の公叔に人を送ってこう伝えました「張儀は既に秦と魏を連合させました。二国はこう言っています『魏が南陽を攻め、秦が三川を攻めよう(どちらも韓の地です)。』魏王が張子を貴んでいるのは張儀の連衡に従っているのは)、韓の地を欲しているからです。しかも韓の南陽は既に占領されました(原文「韓之南陽已挙矣」。これまでに南陽が占領されたという記述はないので、「挙」は「占領」という意味ではないかもしれません)。子(あなた)はなぜ少しでも衍(公孫衍)に任務を委ねて、(魏王の前で)功を立てさせようとしないのですか。そうすれば秦と魏の関係が崩れ、魏は秦に対抗する策を謀るようになり、儀張儀を棄てて韓を受け入れ、(韓と友好を結ぼうとしている)衍を相に任命するでしょう。」
納得した公叔は犀首に任務を委ねて(魏のために)功を立てさせました。
その結果、犀首が魏の相となり、張儀は秦に帰国しました。
 
実際に張儀が魏の相になるのは翌年の事なので(再述します)時間が合いません。しかし公孫衍(犀首)は元々秦に仕えており、張儀と対立したため魏に移ったという事実はこの記述からもうかがえます。
 
魏に入った公孫衍は秦に対抗するため、東方諸国の連合(合従)を謀りました。合従の代表は蘇秦とされていますが、公孫衍も大きな役割を果たしています。
以前、蘇秦に関しては謎が多いと書きました(東周顕王三十六年333年)。一説では、蘇秦張儀よりも後の時代の人で、合従を最初に提唱したのは蘇秦ではなく公孫衍であるともいわれています。
 
合従を成立させるには各国が同等の地位に立つ必要があります。そこで公孫衍は東方五国に王を名乗らせることにしました。これを歴史上「五国相王」といいます。五国とは魏中山です。このうちの魏は既に王を名乗っています。韓は二年前に王を名乗った可能性がありますが、通常はこの年に王位に即いたとされています。
斉も既に王を名乗っています(東周顕王三十五年334年)が、この五国の中には入っていません(但し、韓を抜いて斉を入れるという説もあります)
 
「五国相王」は、東方諸国が協力して秦に対抗するために、互いに王位を認めて尊重し合うことが目的でした。しかし各国にはそれぞれの思惑があり、一枚岩にはなれませんでした。
『戦国策中山策』からです。
犀首が五国に王を名乗らせました。中山国が最後に王位を認められます。
それを知った斉王が趙と魏に言いました「寡人は中山と並んで王でいることを恥と思う(中山が小国だからです)。大国と共に中山を討伐し、中山の王位を廃したい。」
斉を恐れた中山王は張登を招いてこう言いました「寡人が王を称したら、斉が趙と魏に対して寡人と並んで王を称すことを恥と思うから寡人を討伐したいと伝えた。寡人には王位にこだわるつもりはなく、ただ亡国を恐れる。子(汝)でなければ寡人を助けることはできない。」
張登が言いました「主公は臣のために多数の車と豊富な礼物を用意してください。臣は(斉の)田嬰に会いに行きます。」
中山王は張登を斉に派遣しました。
張登が斉の田嬰に言いました「あなたが中山の王位を廃すために趙魏と共に討伐するつもりだと聞きました。しかしこれは過ちです。中山は小国なので、もし三国が討伐したら、王位を廃すことよりも更に大きな要求を出されても必ず命に従います。しかも恐れた中山は必ず趙と魏のために王位を廃して二国に帰順します。これでは趙と魏のために羊を駆るようなものであり、斉の利にはなりません。王位を廃した中山が(最初に中山討伐を主張した)斉に従うはずがありません。」
田嬰が「それではどうするべきだ?」と問うと、張登はこう言いました「あなたが中山の君を招いて王位を認めれば、中山は必ず喜んで趙魏との関係を断ちます。そうすれば、趙魏は怒って中山を攻めるでしょう。中山は危急に臨んで王になることが難しいと知り、しかも亡国を恐れるので、王位を廃して斉に従うようになります。中山の王位を廃させて国を存続させるのは、趙魏のために羊を駆るよりも賢明な選択です。」
田嬰は「わかった(諾)」と答えました。
しかし張丑が反対して言いました「いけません。同じ欲をもつ者は憎しみ合い、同じ憂いをもつ者は親しみあうといいます。今、五国は共に王位を認め合いましたが、負海(海に面した国。斉)だけが参加していません。五国は皆、王位を欲しており、負海を憂いとしています。もしも中山を招いて王位を認めたら、五国の利を奪って負海の利をもたらすことになります(斉が単独で中山の王位を認めたら、他の四国との協調を失わせることになります)。我々が中山を得て四国との関係を断ったら、四国は心を寒くするでしょう。中山の王位を認めて敢えて親しくしたら、中山に近づいて四国を失うことになります。そもそも張登という人物は以前から微計(小計)を中山の君に捧げることを得意としているので、我々に利があると信じてはなりません。」
田嬰は諫言を聞かず、中山君を招いて王位を認めることにしました。
それを見届けて張登が趙と魏に言いました「斉は河東(趙魏)を攻めようとしています。斉は中山と共に王になることを恥辱としていました。それなのに中山を招いて直接、王位を認めようとしています。これは中山の兵を使おうとしているからです。大国(趙魏)は先に中山の王位を認め、中山が斉に行くのを防ぐべきです。」
納得した趙と魏は正式に中山の王位を認めて親しくしました。こうして中山は王位を保ち、斉との関係を断って趙魏に従うようになりました。
 
『戦国策中山策』からもう一つの故事を紹介します。
中山と燕、趙が共に王を名乗りました。それを知った斉は関門を閉じて中山と燕国の交通を遮断し、使者の往来を禁止します。そのうえでこう言いました「我々は万乗の国であり、中山は千乗の国である。なぜ我が国と同等の名を持とうとするのだ。」
斉は平邑を割いて燕と趙に贈り、中山を攻撃させようとしました。
これを聞いた藍諸君(司馬喜。中山国の相)が憂いると、張登が藍諸君に言いました「公は斉の何を憂いているのですか?」
藍諸君が言いました「斉は万乗の強国なので、中山と同列になることを恥とし、土地を惜しむことなく燕趙に贈って中山を攻めようとしている。燕も趙も王位を欲し、しかも領地を貪るだろうから、我が国を援けないのではないかと憂いているのだ。禍が大きければ国を危うくし、禍が小さくても王位を廃さなければならない。これを憂いないわけにはいかない。」
張登が言いました「燕と趙に中山を助けさせ、しかも王位を定めることができれば、事態は解決します。公はそれを望みますか?」
藍諸君が言いました「それは私が望むことだ。」
張登が言いました「公は斉王になったつもりで登(私)に試させてください。問題がないようなら実行しましょう。」
藍諸君が言いました「汝の話を聞いてみたい。」
張登が策を語り始めます「まず、『王(斉王)が土地を惜しまず燕と趙に譲って中山を攻撃させようとしているのは、中山の王位を廃すためでしょう』と言えば、王は『そうだ』と答えます。そこでこう言います『しかしそれでは、王は浪費を招くだけでなく、危険も招きます。領地を削って燕や趙に与えたら、敵国を強くしてしまいます。兵を出して中山を攻めたら、王が最初に難(戦禍)を起こしたことになります。王がこの二者を行ったら、中山を求めても得られるとは限りません。しかしもし王が臣の道(計)を行うのなら、領地を削ることなく、兵を用いることもなく、中山に王位を廃させることができます。』これを聞いた王は必ずこう言います『子の道とはどのようなものだ?』」
藍諸君も「子の道とはどのようなものだ?」と問いました。
張登が続けました「(臣が斉王にこう言います)『王は再び使者を送って中山の君にこう伝えてください「寡人が関所を閉鎖して使者の往来を禁止したのは、中山が勝手に燕趙だけと王位を認め合い、寡人に知らせなかったからである。王(中山君)がもしも足を動かして寡人に会いに来るようなら、寡人は君を援けよう。」中山は燕と趙が自分を援けないのではないかと心配しているので、斉が援けると聞けば必ず燕趙に隠れて王(斉王)に会いに来ます。燕と趙がそれを知れば必ず怒って中山との関係を断ちます。その時を見計らって王も中山との関係を断てば、中山は孤立します。孤立した中山は王位を廃すしかありません。』これを斉王に話せば、斉王はきっと従うでしょう。」
藍諸君が言いました「斉王は必ず従うだろう。しかしこれは(中山の)王位を廃す計だ。どうして王位を定めることができるのだ?」
張登が言いました「これが王位を定める計になるのです。斉は臣が言ったことを我が国に告げに来ます。そこでその内容を燕趙に伝えれば、二国は(斉の裏切りに怒って)斉との往来を断ちます。その間に我が国は燕趙との関係を厚くします。(斉の動きを見た)趙はこう言うでしょう『斉が平邑を我々に譲ろうとしたのは、中山の王位を廃すためではなく、我々と中山の関係を割いて斉だけが中山と親しくするためだ。』こうなれば、斉が百の平邑を譲ろうとしても燕趙は受け取らないはずです。」
藍諸君は「善し」と言って同意し、張登を斉に派遣しました。
斉は張登が語った通り、中山に使者を送って王位を認めることを伝えます。中山がそれを燕と趙に伝えたため、燕と趙は斉との関係を絶って中山を助け、王位に即かせました。
 
 
次回に続きます。